小説

『谷中荘まで』柿沼雅美(『或る少女の死まで』室生犀星)

 ふじこの無邪気さに救われていたけれど、ふじこ一家は父親のいる鹿児島へ引っ越すことになり、僕もここを出てしまおうと思い、そうした。そして1年経った頃だっただろうか、ふじこの母親から故郷へ手紙が届き、読むと、ふじこが腸の病気で死んだと書かれていた。ふじこはいつも髪のぼさっとしたお兄さんのことを言い言いしていたと両親からのお礼があった。僕はその手紙を見て、激しく泣き、僕の退屈な日々を彩ってくれていた少女に僕は何も出来なかった、とただ合掌し続けるしかなかった。
 「それで? 実際のところ、どうして急に戻ってきたんだ?」
 しばらくの沈黙ののち、Oが言った。
 「あぁ、あの、S酒場のほうの少女、覚えてる?」
 Oが、おっと僕の顔を見て、また女か、と言うので、そういうことじゃあないだろう子供相手さ、とわざとらしく右肩を小突いた。
 「覚えてるよ。あの、薄い印象の13歳くらいの小間使いみたいな子だろ?」
 「そんな言い方はよせよ、両親がいなくてそこに住みながら手伝いしてるっておかみさんが言ってたじゃないか」
 んん、とOが唸る。
 「にしても、おかみさんがあの子をかわいがってたとは思えないんだよな。動きがのろいだの、怒ってもニヤニヤしてるだの、客の俺たちに言ってたくらいだから」
 Oは立ち上がり、暑い、と窓を開けた。勢いよく開けるとはめ込んでいるだけのガラスがガシャッと音を立てた。
 あの少女はおかみさんが言うような子ではなかった。どんな客でも柔らかな笑顔を浮かべて、悲しそうな顔をするときは決まって、誰かが傷つきそうな時だった。僕は、少女の表情を見るだけで自分の虚しさの波が穏やかになるのを感じていた。少女が欲しいものがあるなら何でも買ってあげたいと思ったし、実際にそう言ってみたけれど、少女は、ほんとうに何もないの、と嬉しそうな顔で教えてくれた。
 あの事件だって、男とその連れの女が少女をバカにしたことから始まってしまった。男が早くしろよ、と言うのを、待ってくださいなと少女が答えると、次は女が、頭足りない子かよ、と言った。僕はそれで若者を睨んだ。そして目が合ってしまって騒ぎになったのだ。今思い返すだけでも、少女になんの罪があったというんだ、と思う。
 「よっし、行くか」
 Oが窓の外を見ながら言う。雲の色が夕刻を知らせ、この頃になると上野の寛永寺の時鐘が聞こえていたことを思い出した。

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