小説

『神隠し沼』宮城忠司(白山麓民話『孝行娘』)

 日はとっぷりと暮れ、真っ暗な獣道をミユキは夢中で逃げた。我に帰った時には道に迷っていた。それでも休む気になれず、走り続けた。『どんなことをしてでも、麓へ下りんことには::』恐怖がミユキを急かせた。
 杉木立の向こうに灯りがチラリと見えた。助けを乞おうと、ミユキはその一軒家の前に立っていた。見た事もない大屋敷で回りは土塀で囲まれていた。門構えにたじろいだが心を決め案内を乞うた。それは白山麓一帯を治めている長者の家だった。ミユキは知る由もなかった。
 長者の吉冶はその夜に限って行燈に灯を入れ、考えごとをしていた。それは京都の本願寺本山から差し向けられた僧たちのことだった。彼らは白山麓の一向宗門徒を扇動して戦国大名と敵対する構図を描いていた。仮に戦いとなれば何万人の犠牲者が出るやもしれず、吉冶は危惧を抱き憂慮していた。
 さて寝ようかと行燈の灯を吹き消そうとした時だった。誰かが大門を叩く音に気付き、吉冶は表へ出た。泥にまみれた百姓娘だった。余りの汚さに吉冶は下男を起こし風呂を焚かせた。娘の気配から、何か事情が有りそうだったが詳細は後で良かろうと先を急がせた。
 風呂から上がった娘に着物を着せ、斯く斯く云云、経緯を聞いた吉冶も神隠し沼の伝説を小耳にはさんでいた。
 吉冶に跡取りがいなかった。先祖からの申し渡しがあって、跡取りは誰でも良い訳ではなかった。吉冶は大蛇を退治したミユキを養女の条件に合うかどうか試そうと思った。
「実は、ワシは長者だけど、悔しい事に跡取りに恵まれんでのう。昔からの言い伝えがあって、誰でも良い訳じゃなくってのう。それには、一度に七つのかまどに火を入れることができる子であって、しかも、真綿を敷いた上を草鞋(わらじ)で歩けなければ駄目なんじゃ。そんな娘が居る筈もない::困っとるがや。ミユキ、試してくれんかのう?」
「ウラで良かったら、やってみる」
 ミユキは一宿のお礼かとも思い、吉冶の意図を汲んで気楽に応じた。
 朝が明けると同時にミユキは火打ち石で火種をおこし、七つのかまどをいっぺんに火を点けた。暫くで、どのかまども炎で燃えあがった。誰にでもできる芸当ではなかった。当のミユキさえ吃驚仰天してしまった。

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