小説

『神隠し沼』宮城忠司(白山麓民話『孝行娘』)

「さぁー、ここが住処だ。先に沼に入らんかい?」
 ミユキは首を横に振って坊さんから入るように促した。
「しようがないなぁー。まぁーいいか::」
 坊さんがくるぶしを水に浸けた時、稲妻が光り静かだった沼が荒々しく渦を巻いた。一匹の真っ白な大蛇が波間から現れ、ミユキを誘いこもうと尾っぽを伸ばした。坊さんの正体は何百年の間沼底を住処としている大蛇だった。百年に一度、生娘を餌食にすることで生き永らえている沼の主だった。
 ミユキは担いできた米ぬかを大蛇に向かって投げつけた。いきなりの急襲で米ぬかを被った大蛇は苦しんで、のたうちまわった。それでも反撃を試み、八畳ほどもある口を広げてミユキを呑みこもうとした。
 ミユキはその口の中へ懐に隠し持ってきた千本針を次々と投げ入れた。沼の中ほどで竜巻が起こり二十間の高さまで水柱が噴き上がった。辺り一面にバラバラと水しぶきが降りかかって、まるで地獄絵図だった。七転八倒した大蛇は竜巻に呑まれ、沼底へと消えて行った。
 一刻の猶予もできなかった。ミユキは背負子を投げ捨て崖道を転がるように走った。ミユキは幼い頃に、ひいばあちゃんから神隠し沼の大蛇の言い伝えを聞いた記憶が残っていた。
「誰にも内緒やぞ。ウラも婆さんから聞いた話や。この山奥の沼に大蛇が住んでおってのう。腹が減ったら村に災いを持ってくるんじゃ。娘を餌食にして生きているという話や。米ぬかと針千本で助かった娘っこが居たそうやさかい。万一の話や。ユキぼうが娘になった時になぁー、そんなことがあったら?と思ったさかい、言うておくんやぞ。分かったのう。ユキぼうは賢い子じゃから」
 ミユキは、伝造から白装束の坊さんの話を聞いて『それは大蛇の化身に違いない』と確信した。家族を村の衆を、誰かが飢えから救わなければならなかった。伝造が、坊さんと約束をしたお陰で稲穂は生気を取り戻した。今度はミユキの番だった。拒めば、どんな災難が村に降り掛かるかも知れなかった。
 しかし、黙って大蛇の餌食になる事だけは避けたかった。生臭い真っ黒な胃袋のなかで、ジワジワ溶かされるのを想像するだけで身の毛がよだった。米ぬか一俵と針千本をオトウに用意して貰い、ミユキは決死の覚悟で大蛇と向き合おうと思った。
 

1 2 3 4 5 6 7 8