小説

『神隠し沼』宮城忠司(白山麓民話『孝行娘』)

 ミユキは吉冶から読み書き算術の手ほどきを受けた。茶道や華道などの行儀見習いも教えられた。長者の跡取りに相応しい教養が要求された。素養に恵まれていたミユキは、その全てを暫くの間に吸収した。白山麓で若御寮様と誰からも慕われた。
 ミユキには気懸りがあって吉冶に一度は話さなければいけない事だった。
「お父様。わては神隠し沼の大蛇が気になってしようがないげん。沼底で苦しんでいるかと思うだけで辛いんや。お供えを持って一緒に行ってもらえんやろか?オカーから貰った草履(ぞうり)が三足と草鞋(わらじ)が一足残っとるから、草履一足は家宝にして、残り二足の草履をそれぞれが履いて行けば、蛇に呑まれんじゃろう。後一足だけ草鞋(わらじ)があるから、それを大蛇のお供えにしようと思うとる」
 吉冶は即決し、翌日二人は草履(ぞうり)を履いて神隠し沼へと向かった。ミユキは沼までの道程を全く覚えていなかったが導かれるように獣道を登って行った。やがて、ブナ林に囲まれた大沼にたどり着いた。怪しいまでの静かさだった。小鳥はおろか、蝉の鳴き声も消えていた。
 灰色に濁った湖面に草鞋を投げ入れ、大蛇を供養したその時である。風が湧き、雲が渦を巻いて、沼底から龍が現れた。前脚に草鞋(わらじ)を履いているのが目に止まったミユキは、あろうことか笑ってしまった。龍が音もなく近付いて
「よう来て呉れた。ワシは大昔に悪さをしたから、大蛇に身を変えられたのじゃ。草鞋(わらじ)のお陰で手足を動かすことができて、漸く元の龍に戻れた。もう悪さはしない!ワシは正義の味方じゃ。長者殿、安心していいぞ。それと、娘っ子を食べるというのは嘘じゃ。楽しく暮らしただけじゃわい!それから、ちょっとばかりお願いが有るんじゃが::毎年今日この日に、草鞋(わらじ)を一足供えてくれんかのう?」
 ミユキは『お安い御用』だと、龍の長い髭をもてあそびながら頷いた。龍は気持ちが良いのか、なすがまま目を細めていた。疾風が吹き、龍は雷神、風神を従えて白山の頂きへと帰って行った。
 
 吉冶の懸念が現実味を帯びて来た。信長軍の先鋒、柴田勝家が越前から大軍をなし、一向宗討伐の為、手取川沿いを進軍して鳥越城を囲んだ。そこでは山内衆という一向宗門徒が砦を守っていた。血気盛んな山内衆でも多勢に無勢で落城は明らかだった。
 吉冶は早急に、屋敷回りに土塁を積み、土塀を高く頑丈に施して合戦に供えた。鳥越城からは二十里程上流の山奥だから、勝家が一気に攻め込める所ではなかった。吉冶の屋敷は合戦が起こった場合には地の利に恵まれていた。

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