小説

『山姥のその後』星ゆきえ(『山姥』)

「おかねさん、もう村が見えますよ。」草場の反対側は崖になっているのか、気がつけば木々の間から小さく田が広がっていた。また坂がある。下に家の屋根が見えた。七、八人がかたまっているのが見えた。今まで押さえていた不安が一気に沸騰した。痛いほど胸ががなりだした。おれと会っていなくとも、噂は広まっている。噂ほど広がるものはねえ。
「水普請なのかな。」知念が言った。気がついたらしく下から爺様が「おや、知念さん、もうそろそろと思っておりやした。」大声で言った。
「続けてください。構わないから。」
「水が一気に増えて、このまま田に流し込んでは具合が悪いから、流れを変えていた。今ちょうど終わったところだ。」爺様と知念とのやり取りを聞きながら周りの男らは、ばらばらに頭を下げた。そばにいるかねにも目を移した。
「この人はおかねさん。今度寺に来ました。」かねはたれていた頭をさらに低く下げたまま、神経を突き立てた。誰かが山姥だと叫んだら、逃げよう。飛び跳ねられるように膝をたわめて、瞬間をみなぎって震えた。下げたあごから汗がしたたり落ちた。背中に着物が張り付いていた。ばれたら寺には二度と行かない、すべてを決めた。少しだけ気が落ち着いた。ぴたぴた水のしたたる音が聞こえた。男たちの声はしなかった。かねは上目遣いに少し顔を上げた。緊張からすさまじいほど青かった。長い時がたったとうにように思われた。
「ぞんぞ、よろしくお願げえしますだ。」一人が言うと、それに合わせるように、みんながもぞもぞと頭を下げた。
 かねは黙ったまま、子供のようにぺこりと頭を下げた。あごから汗がしたたり落ちていた。仕事が終わって村の者が帰って行った。
「後で知念さんと行くから、そのとき持って行く。」爺様が言った。それがなんであるのか、かねは知っていた。
 きのう知念が<火の用心>と書いた一枚の紙を持ってきた。「村の人たちに頼まれていたものです。台所に貼るのは女の手のものでないと駄目だそうです。だから、おかねさん、お願いします。」その<火の用心>の字を、かねは何度も練習した。そして六枚の紙に心を込めてと書いた。そのことを言っているのだ。
本家の爺様と知念は連れだって、仏壇に経を唱えるために出かけた。その間、かねは婆さまのたつと話しながら待っていた。

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