小説

『山姥のその後』星ゆきえ(『山姥』)

 次の日も同じことを繰り返した。川から上がって、石の上に腹ばいになりながら髪の毛を乾かした。鏡を取り出してじっと顔を見た。今までも池に映った自分の顔を何ども見たことはある。それは見たと言うだけで、特にどうと言うことではない。山姥にとって大切なことは、あそこの坂に這い上って罠を仕掛けられるか、きつねの肉を担ぐ力があるか、そんなことだけだった。それなのに今、山姥は自分の眼、鼻、眉、口、耳をじっと見つめていた。これがおれの顔か。額にある太い皺は鹿の角でつかれた傷のせいだ。目の下の傷はしゃごみの棘にかかれたものだ。思いめぐらすうちにふっと年よりの僧を思い出した。あのとき子供を追っかけて寺に行ったのは、子供と話したかったからだ。囲炉裏で包丁を研いでいたのも朝にたぬき汁を食わせてやりたかったそれだけだ。それなのに自分たちが食われると勘違いして逃げ出した。そうじゃないのだと、追って行っただけだ。あの子供と同じように、みんなおれを見ただけで逃げ出してしまう。なぜだかわからなかった。でもあの坊様だけは違った。晩飯まで食わせてくれた。それどころか若い坊様の面倒まで頼んで、形見の櫛と鏡までくれた。おれをおっかねえと思わなかった。おれの方があの坊様をおっかねえと思ったぐれえだ。
 三日たって、とうとう髪は櫛の間を通りだした。顔も体の皮もつるつるしていた。洗ったこともなかった着物に赤土をこすり付けて足でふんだ。色は抜けて古くはあるがこざっぱりとした。
 寺に行く朝、暗いうちに起きた。自分で作った新しいわらぞうりと干したぜんまいやらわらびを柏の葉で包んで、前の晩ひとまとめにして上がり際に置いた。飯が終わると、鍋をあらった。櫛と鏡を懐に深くしまってから、戸を締めた。
 山姥の歩きは早かった。取り憑かれたように歩いた。人に会いたくないということもあったが、あの若い僧が自分を待っているような気がしてた。野っ原の草の茂ったところを、ぐんぐんと歩いた。寺に近づくと道に出ざるをえなかったが、人に会うこともなかった。
 これが寺か。あの時は黒々とした建物の影が覆い被さってくるようで、息苦しく感じたが、目の前の寺はこぢんまりと、のどかな感じがする。寺にある高い木もない、門もない。静まりかいっていた。
 入り口の前でもぞもぞとしていると、後ろから声がした。ぎょっとして振り返ると、あのとき知念と呼ばれた若い僧が立っていた。
「和尚さんは町の寺に行っていていないけど。」山姥はうろたえた。自分が来ることを忘れているのだ。知念はじっと山姥を見ていた。
「あ、あ、あの時の、あの時の、あんまり変わっていたのでわからなかった。ぜんぜんわからなかった。」よほど驚いたのか二度も繰り返した。山姥は相手の驚きに満足した。

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