小説

『山姥のその後』星ゆきえ(『山姥』)

 翌日留守をかねに頼んで、知念は町の寺に行った。月に一度は用事で行くのだと、かねの手紙も懐に入れた。かねはこの時とばかりに寺の中を磨いた。こんなに長い間、自分の小屋を空けたことがなかったが、帰りたいとは思わなかった。いつまでもここにいて、字を教わりたかった。掃除が終わると灰の上で四十八の字を書いた。
 知念は薄暗くなる頃帰ってきた。背中に大きな包みを背負っていた。
「和尚さんが手紙を見て、それは、喜んでいました。もっとここにいて字を覚えたらいいと言っておられた。『檀家さんのおばあさんが着替えないと困るだろうと、この着物をくれたそうです。持って行くように』と言われたので。和尚さんの手紙も入っています。」そう言って包みを前に押しやった。かねは包みを開けて着物をちらっと見て、上にのっていた手紙を取った。<かねどのへ>と書かれてある字を一つずつ読んだ。
「今度はこれに書いて見ましょう。」字の書いてある一束の紙を見せた。かねはうれしかった。明日からまた知念から字を教えてもらえる。手紙を読みはじた。「おかねさん、かなをぜんぶ書けるようになったそうで、おどろいた。またつぎのてがみをまっている。」一つだけわからない字は漢字だと知念は言った。
 翌日から知念は漢字を教えた。筆にたっぷりと水を吸い込ませて板の間に字を書き、かねにも書かせた。灰にかくのとは大違い。筆の先はゆるゆるとして、思うようにはいかない。「そこで力を抜いて、そこをはねて。」と言葉も添えた。板の間はすぐに濡れた。乾くのを待っているときに知念は言った。「本当におかねさんは筋が良い。私の初めての時なんか、怒られてばかしだったもの。」かねはまんざらでもなかった。 
 それから一月もたった頃知念はかねに言った。
「おかねさん。近いうちに村に行きますが、おかねさんも一緒にお願いします。」人と顔を会わせるのは怖かったが、嫌とは言えなかった。
 その日は朝早く、二人は寺を出た。二里半ぐらいだと言うから昼飯までには着くはずだ。久しぶりの外歩きだが、かねの体は重かった。村のなかでおれを知っている者がいたら終わりだ。歩きながらあたりの山の形や、草原や木の塊に目をこらしていた。来たことがないことを願った。所どころあった畑もなくなって、背の低い木と藪が代わり映えなく続いた。でこぼこの石じゃら道は切れることがなかった。途中高い松の木がひとかたまり風のためか同じ方向に身をよじっていた。ここは高台なのだろう。案の定、少し行くと下り坂になり、道の脇は腰ほどの草が丈を揃えて見渡す限り続いている。馬の餌の草場なのだろう。こんな所には来たことはないはずだと、思い返していた。だが草場はわらびもぜんまいもこごみも採れる。みんな地続きなのだ。来たことがないとも言えなかった。

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