小説

『山姥のその後』星ゆきえ(『山姥』)

「頼まれていたのでな。」素っ気なく言った。
「今日来られるのは知っていたので、いたどりを取ってきたのです。でもあんまり変わっていたのでわからなかった。」言いながらしきりに山姥の背中に目をやった。山姥はからかうようにぐるりと一回りして、「尻尾はないよ。」と言うと知念は笑った。
「中に入ってください。昨日から待っていたのだから。油炒をつくります。」自分を待っていてくれたのだ。うれしかった。笑ったことなどない山姥のかたい顔の皮が少し緩んだ。
「わしもわらびを持ってきた。」柏の葉の包みを振った。
「座っていてください。疲れているのだから。」知念は土間の奥に入った。山姥は囲炉裏のそばに座って、部屋の中を見回した。見覚えのある黒光りする梁に紙が斜めに貼り付けてあった。紙はすすで黒かった。
「いたどりを切ってきたから、油で炒めますよ。」知念は火に目を細め、慣れた手つきで囲炉裏のかぎに鍋をかけた。他人がやることを見たことはなかったから、なにもかも新鮮に見えた。一升瓶から油を注いで洗ったばかりのいたどりを入れると、びしびしと小気味の良い音を立てた。
「私は油炒めが好きですが、どうですか。」
「油炒めは食ったことはねえが、いたどりは好きだ。」
「じゃあ、油ものは嫌いなのですか。油ものを食べないと,肌がかさかさになって風邪を引きやすいって言うけど、」と言って山姥を見た。
「でも顔色もつやつやしている。さっきからユリの匂いがすると思っていたら、あなたでした。」と言った。山姥はあの赤土には匂などなかったがと、ちらっと頭をよぎったが、うれしかった。
「名前は何というのですか。なんと呼んでいいのかわからないと。」今まで名前など気にもしていなかった。呼ばれたこともなかった。
「ばあと呼ばれるが。こんな年になると名前なんか呼ばれたことがねえから忘れた。」山姥の見栄だった。口をきいてくれる人なんか誰もいない。知念は笑った。
「それじゃ、かねはどうですか。かねは、お寺の鐘ですよ。<おかねさん。>」名前が欲しいと、思ったこともなかった。かね。かね、おれの名前か。思いもよらない言葉だった。かね、かね。胸の中が熱く膨らんだ。顔もほてった。
「そんな立派な名前をつけて貰って、悪いことでも起きねえか。」本気で言った。
「あなたは立派な人です。和尚さんが私のことを頼んだのだから。」知念は山姥の横に座って、囲炉裏の灰に枝で<か>という字を書いて、それを山姥に渡した。「かと言う字です。」山姥もおなじ形を書いた。
「上手です。今度は<ね>」。知念のかいた通りに書いた。二つの字はかねの頭にしっかりと入った。

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