小説

『つまらないものですが』泉谷幸子(『わらしべ長者』)

 よし、と手ぶらになった加奈は心の中でつぶやく。これで、これまでのあたしと決別した。ヒロシとだけでなく、これまでのあたしともおさらばだ。これからは、これまでと違う生活をし、これまでと違う彼氏を探すのだ。見てくれのいい人でなく、あの田中さんのように、ごく普通の常識のある人を。傘を手放したその時から、加奈は自分がひとつ成長したような気がした。そして、田中が家に着いたら、この傘はもういらないからと捨ててほしい。どうか捨ててくれ、と心から願うのだった。
 最寄り駅に着いた時、雨は完全にあがっていた。そして加奈は初めて空腹に気が付いた。そういえば昼前にパンを少しかじってから何も食べていない。よくこれまでもったなと思ったが、いつも寄るコンビニを素通りし、公園を横手に見ながら、本当は歩いて10分ほどの自宅マンションに着いた。
 蒸し暑い部屋に入ってエアコンをつけ、すぐに米を洗い炊飯器にスイッチを入れ、そのままシャワーにかかり、出てから髪を乾かし、扇風機にかかりながら化粧水で肌を整え部屋着を着る。冷蔵庫から出したチューハイ片手にキッチンに向かい、ちくわをつまみながら、卵をときニラとともにフライパンで炒めてしょうゆ少々とじゃこをふりかけ、湯を沸かしてインスタント味噌汁を入れ、お茶も入れ、沢庵とともにテーブルに並べ終わった頃にご飯が炊ける。
「これで十分よね」
 加奈はつぶやく。そう、こんなので十分だ。見かけだけおしゃれで味はいまひとつの出来合いの安物料理でなく、ただの炒め物と味噌汁と白ご飯と漬物が、自分にはちょうどいいのだ。
 チューハイを飲み干した時、ふと明日にやらなければいけない仕事の山を思い出したが、頭の中でぶんぶん振り落とす。今は今。とりあえず今をきちんとしよう。加奈は箸を手に取り、身も心もさっぱりとした気分で遅い夕食を食べだした。

 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14