小説

『つまらないものですが』泉谷幸子(『わらしべ長者』)

 田中もにこにこして言う。映画館から出ようとすると、ずいぶん小降りにはなっているが、まだ雨が降っていた。加奈が傘を開く。
「これ、さっき知らない人にもらった傘で、ちょっと壊れていますけど、よかったら入っていってください」
 田中はすんなりと
「ありがとうございます。では僕が持ちましょう。そこの駅までですよね?」
と言って傘を持ち、壊れた部分を自分の側に向けて歩き出した。ここでヒロシなら軽く相手の身体に当たるように歩くはずだ。でも田中はそんなことはしない。それが多分一般的には普通なのだろう。ヒロシはやっぱりそういう奴なんだ、そんな奴とはもう完全に縁を切るんだ、と加奈はすがすがしい気分で一緒に歩いて行った。
 駅に着き、自宅がどこかと聞くと、田中は反対方面に行くらしい。
「駅からお宅まではどのくらいの距離なんですか」
と聞くと、10分程度歩くと言う。
「では、この傘を持って行ってください」
 田中は、走れば5分くらいだし雨もその頃にはやんでいるだろうからいらないと言ったが、加奈は自宅が駅前でほとんど歩かないし、そもそもこれは見知らぬ人にもらったものだし壊れてるし、どうぞ、と強引に田中に渡した。田中は困った様子だったが、必要以上に断るのも気が引けたのか、結局受け取り、丁寧に礼を言って反対方向へ歩いて行った。加奈はしばらく後姿を見送り、くるりと返って自宅方面のホームに向かった。
 

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