小説

『つまらないものですが』泉谷幸子(『わらしべ長者』)

「はい、田中さんですか?中野さんと同じ会社の」
と言うと、ほっとしたような顔で
「そうです、ああ、よかった、人違いじゃなくて」
と素朴に笑う。傘を持ってこずに走ったらしく、髪と肩がけっこう濡れている。加奈もほっとする。かっこいい人でもむさくるしい人でもなく、平凡な人でよかった。
「これ、預かってきたチケットです。僕もご一緒してよろしいですか。映画観たらすぐに帰りますが」
「ええ、どうぞ、私も一人で映画を観たことがないので」
 ご一緒いただくと嬉しいです、との言葉を飲み込む。そこまで言うと、なんだかよくない気がした。それにしても、チケットを渡されてふいと離れられると、一緒にいるのを避けられたようで気分が悪い。かといってだらだら近くにおられても落ち着かない。一緒に観るけれどそれだけだと最初から断ってくれる、そのさりげない心遣いが加奈は嬉しかった。
 差しさわりのない涼子の話などして時間をつぶし、ようやく映画館が開いたので二人で入って席に並んで座る。映画は予想以上にロマンチックで楽しかった。ドキドキするシーンも笑いも適度にあり、今年最高のラブストーリーと噂されるだけのものはあるなと思うほどの素晴らしい出来栄えだった。さすが涼子が押しただけのことはある。感動的なエンディング曲とともに幕が下り、加奈たちは席を立った。
「よかったですね」
 加奈は簡単に素直な感想を言った。
「ええ、僕、本当にこの映画観たかったんです。中野さんのおかげで観られて、あの人には申し訳ないけど、僕はラッキーでした」
 

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