小説

『マヨイガ』土橋義史(『遠野物語-マヨヒガ』)

「先輩、大金持ちなると分かったら、なんだか今日はもう釣りなんてしている気分じゃなくなりましたよ。僕が奢りますから、帰って飲みに行きましょうよ」
 高橋はそう言って釣竿を畳み始めた。
 遠山は怒りに震えながらただ無言でその様子を睨んでいる。
 高橋は手早く竿を畳み終え、こまごまとした道具類を片付け始めた。地面にしゃがみこみ、丸まった背中を遠山に向ける。
 その姿を見た遠山は咄嗟に手近にあった石を拾い上げて足を踏み出した。
 その気配を察した高橋が顔を上げ振り返る。
 遠山はこちらに向いた高橋の眉間に、持っていた石を思い切り振り下ろしていた。
 高橋の呻きに重なって、驚いたように飛び立つ鳥たちの羽音が辺りに響く。
 動かなくなった高橋を遠山はぼんやりと見下ろしてつぶやいた。
「バカめ。欲を出したお前が悪いんだからな……」

 太陽は稜線の向こうに姿を消し、辺りは徐々に夜の色を濃くし始めていた。既に暗くなった木々の間から懐中電灯の光が揺れながら現れた。それを手にした遠山の足取りはフラフラと頼りなく、肩で息をしている。彼の衣服のそこかしこには土や泥の汚れがこびりついていた。
「死体も釣り道具も、あそこに埋めときゃ見つからないだろ。こんな山奥だからな」
 遠山はつぶやきながら薄闇に包まれた辺りの様子に目を走らせた。
それから彼は思い出したように右手を後ろに回し、ベルトに差してあった柄杓を手にとった。
「これで大金持ちか……」
 愛しげに、ひとしきり柄杓を撫で回してから、遠山は川に沿って続く緩やかな崖を上り始めた。崖の上には細い林道が通っており、その路肩に彼は車を停めてあった。
 運転席に座った遠山は柄杓を大切に助手席へと置くと、エンジンをかけた。それからおもむろに窓を開け、取り出したタバコに火をつけた。深々と吸い込んだ煙を窓の外に向けて吐き出してから、ヘッドライトを点しゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
 車を走らせるうちに林道は徐々に上り坂となり、川面との高低差がついていく。ちらりと窓の外を見た遠山の目には、崖の下の川面はもはや見えないほどだ。
 こんなところから落ちたらひとたまりもないな……
 そう思い、ぶるりと身震いした遠山は、フロントガラスの向こうに見える路面に意識を集中させた。

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