小説

『マヨイガ』土橋義史(『遠野物語-マヨヒガ』)

 ぼんやりと釣り糸を垂れる遠山は、数週間前に聞かされた大学時代の友人・小山田の体験談を思い起こしていた。その話を聞いたのは酒の席で、酔いもかなり回っていたので所々うろ覚えのところもあるのだが、概ねそんな話だった。
 そう言えば小山田の奴、どこへ釣りに行ったって言ってたっけな……あの時はまさか自分も釣りをすることになるとは思っていなかったから、ちゃんと聞いてなかったよ……って言うか、今思えばあいつのあの話自体も、どこか他でも聞いたことがあるような気がするんだよな……。
 そんなことを考えながら、遠山は釣り糸をたらした川面から上流のほうへと視線と移す。
 そこには会社の後輩・高橋が懸命に釣竿を振るう姿があった。
 遠山が初めて釣りをすることになったのはこの後輩のせいなのだ。

「先輩、週末に女の子とヤマメ釣りに行くことになったんですけど、先輩も一緒にどうですか?女の子、二人で来るようなんですよ」
 釣りなどしたことのない遠山は後輩の誘いに二の足を踏んでいたのだが、その背中を押すように高橋が囁いた。
「二人とも、彼氏いないみたいですよ」
 先輩として、その一言で急に態度を変えるのもまずいと思い、しばらく逡巡する風を見せてから、
「ま、俺も趣味らしい趣味はないからなぁ。ちょうどいい機会だし釣りを始めるのもいいかもしれないな」
 その日の会社帰り、早速遠山は高橋を誘って釣り道具店に向っていた。
 ところが約束の日、勢い込んで集合場所に行ってみると、来ていたのは高橋だけだった。肝心の女の子はドタキャンしていた。
 趣味として釣りを始めようと言った手前、遠山は腹が立ったものの帰るわけにもいかず、憤然とした態度で車に乗り込んだ。
 そんな先輩の険悪な空気を素早く察した高橋は、
「まあまあ先輩、いきなり女の子と一緒に行って釣れなかったらかっこ悪いですからね。今日は練習ということで」
「別に女なんてどうでもいいよ。俺は真面目に釣りを始めようと思っているだけだから」
 憮然とした面持ちでそう言って、遠山は車を走らせた。
 二時間近くかけて釣り場についてみると、高橋は遠山に仕掛けと釣り方を適当に教えただけで一人釣りを楽しみ始め、そのうち先輩の存在など忘れたかのように夢中になっていた。彼は元々釣りを趣味としているだけに上手いものだった。しかし遠山にしてみれば、きっかけが不純な動機であったため、今ひとつ釣りにも集中できず、退屈な時間を過ごす羽目になっていた。自分をそっちのけにして釣りに講じる後輩を怒る気にもなれず、遠山は苦々しげにその様子を眺めているのだった。

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