小説

『赤いブラジャー』五十嵐涼(『赤い靴』)

 お袋が入院中だというのに、この時とばかりに妻と娘はオレを置いて温泉旅行に出掛けてしまった。お袋の目を気にせず羽を伸ばせるからこのタイミングで行ったのだろう。普段多少は気遣って生活しているとは思うので、そこは笑顔で送り出してやる事にした。
 そういう訳で、今朝からこの家にはオレしかいない。
 だから、だから、やるなら今日がチャンスだ。
(しかし、本当にやってしまっていいのか?一度やってしまえばもう戻れなくなるのでは!?)
 寝室にある全身鏡を前にオレは、そこに映る自分の姿を見つめながら葛藤していた。ずっと我慢してきた事を何故にいま頃、もう50も近いというのに。敢えてここでパンドラの箱を開く必要もないのではなかろうか。
 握りしめた真っ赤な胸当て、つまりブラジャーと上半身裸になったオレとを代わる代わる見つめた。顔は乾涸びたイグアナ、体はシミと油でまみれている所を除けば大人気キャラクターの黄色い熊みたいだ。そんな男がこの聖なる装備を装着する事など許されるのだろうか。しかも、赤、真っ赤ときたもんだ。こんな官能的でエロチシズムのプライマーみたいなものを我が肉体と一つにしようなどとあってはならないのではないか。
「いや、オレは…変態じゃない、オレは変態じゃない」
 まるで呪文の様に何度もその言葉を呟く。すると、呟く度に体の内側からパワーが溢れ出てくる気がした。
(何を躊躇う!既にホーリーアーマーは我が手中にあり、あとは装備するだけじゃないか!しかも、お袋は入院中で妻と娘は明日まで帰ってこない。こんなチャンスはそうそうあるまい。ここは、もうやるしかないんだ!勇者よ!!)
 オレは大きく深呼吸をすると、まずはそっと頭にブラジャーを被せてみた。そしてギュッと顎下でホックを止める。
「おお」
 その姿はまさに撃墜王と言うべきだろうか。おびただしい死の爆煙をくぐり抜け、ただひたすら母国と愛する人達の為に闘ってきた男の勇姿に違いなかった。
(なんて事だ。頭に被っただけでこの威力!!!これは!想像以上だ!)
 そして再び深呼吸。それから両脇の臭いをふんふんと嗅ぎ、石けんの香りを確認するとオレは一つ頷き頭からブラジャーを外した。
「いくぞ、やるぞ!」
 まずは右腕からゆっくりと肩ひもを通す。ただ肩に吊るすだけなのに、こいつといったら。細かいレースの刺繍が施され、まるで舞踏会でワルツを踊る貴婦人の様だ。右側だけ通した時点で既にオレの頬は紅潮し、息づかいも荒くなっていた。
(女はこんなときめく思いをして毎日こいつを装着しているのか!どうりであんなにキャッキャと喋り続ける事が出来る訳だ)
 これからは、ただやかましと思っていた妻と娘の会話も寛容な心で受け入れてやる事が出来そうだ。オレは人間的成長をした自分の姿にうっとりとしながら左肩にも紐を通した。
「おお、これは!ジャンヌダルクの様な強さと儚さを持ち合わせているではないか!」
 鏡に映るオレは今までにない昂然たるオーラを纏っていた。しかし、ここで満足してはいけない。最後の肝心要の部分がある。

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