小説

『蜘蛛の意図』結城熊雄(『蜘蛛の糸』)

 そこには今にも倒れてしまいそうなほど百孔千瘡の神田がいた。
「話は聞いていた。俺はてっきりお釈迦様が救いの手を差し伸べてくれたのかと思っていたが、どうやら違うみたいだな」
「ここは罪人が来るところではない。さっさと地獄へ戻れ」
 それには答えず、神田は大きく深呼吸をした。
「母ちゃん、ありがとう。母ちゃんおかげでこんな俺でも極楽に来れた。ここの空気を吸えただけで満足だ。そして、ごめんな。早いけどもうお別れだよ」
「あなたはもう十分罪を償った。代わりにあたしが地獄へ行くわ」
「駄目だ。地獄は母ちゃんみたいな善人が来るような場所じゃない。俺は地獄に戻るよ」
「馬鹿のくせに物分かりはいい」
 お釈迦様が鼻で笑った、そのときだった。神田はお釈迦様の隙を突き羽交い絞めにしてしまった。
「おい、何をする無礼者!」
「地獄から極楽には行けないが、極楽から地獄には行けるそうじゃねえか」
 神田は純粋な男だった。良い奴にはどこまでも味方し力になる。悪い奴は徹底的に懲らしめ打ち倒す。
「じゃあな母ちゃん」
 そう言うと神田は蓮池の淵から身を投げた。
「やめろおおおおおお」
 その叫び声をどこかで聞いたことがある気がした。ああ、そうか。これまで何十年と聞いてきた地獄の罪人の悲鳴にそっくりなのだった。神田はお釈迦様とともに闇の果てに吸い込まれていった。
あとに残された一匹の蜘蛛を薄橙の光が包む。極楽はもう、夕暮れ時だ。

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