小説

『シュレーディンガーのうらしま』さかうえさおり(『浦島太郎』)

「で、引っ越すの?」
「アパートを解約するんだ。いつ帰れるか分からないからな」
「いつ帰れるか分からない?」
 ヨリが不審な目を向ける。「どこへ行くの」
 俺は無言で親指を立てて、ディープブルーのテレビに向けた。
「まさか竜宮……?」
 声が掠れている。
「政府から直々のオファーがあったんだ」
 末端の研究者である俺にまで話が来たのは、単に引き受ける専門家が居なかったからだろう。
 なのに、つい自慢じみた言い方をしてしまった。そうまでして娘に父親としての沽券を保ちたいか、と我ながら呆れる。
「やめなよ、危ないよ!」
 自嘲する俺に、ヨリは真っ直ぐに反対した。
「確かに浦島太郎じゃ、あっちの一年はこっちの百年、なんて言うからな」
 ハハ、と笑うと、笑い事じゃない、と睨まれた。
「お前が生きてるうちに帰還するよ」
「おばあちゃんになった私が、四十代のパパに再会するなんてイヤよ!」
 絶叫に近い声で喚いた。
「浦島効果ってやつだな。だが考えてみろよ。浦島太郎は約千二百年前の奈良時代の万葉集に書かれているが……」
「古っ! やっぱり竜宮なんて無いのよ!」
「まあ聞け。もし乙姫が実在してたらまだ三十代前半。新垣結衣ちゃんと同世代だ。これに勝るロマンがあるか?」
 和ませようとしたが、逆効果だった。
「もう知らない!」
 涙を溜めた目で叫ぶと、ヨリは部屋を飛び出した。
 再び一人になった部屋で、冷めたたい焼きを頬張る。甘いはずの餡はアクのように苦かった。
     *

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