小説

『二人羽織』斉藤千(『芝浜(落語)』(東京都))

 そんな日々の中で、一年以内で真打ち云々の話は正直忘れていた。姐さんに呼び出され、そういう話が来ていると報されて、ようやく思い出したぐらいだった。
「正直、驚いたけどさ。今のあんただったら、あの人も許してくれると思うよ」
「はあ」その本人に尻を叩かれてここまで来たとは言わなかった。
「あたしはこれを機に、全角を襲名したっていいと思うんだけど」
「少し考えさせてください」
 少し前だったら、俺は二つ返事で受けていた。煮え切らないのは、何かが自分の中で引っ掛かっていたからだ。
「何だお前。俺と一緒に地獄へ行きてえのか」頭の中の師匠が言った。
「そうじゃねえんですが、自分でも上手く説明できなくて」
「馬鹿が難しいこと考えても碌なことにならねえぜ?」
「難しくしてんのは師匠ですよ」
 引っ掛かりの原因は、程なくして判明した。ある雑誌のインタビューを受けている時のことだった。
「世間では、亡き蝶福亭全角の生き写しとまで言われていますが――」
 ライターのその一言で、俺は雷に打たれた。そこに全ての答えがあった。
 評価されているのは、俺ではなく師匠なのだ。
 俺はつまり、師匠の猿真似をしていたに過ぎない。
 そんなことで昇進して、果たして意味があるのだろうか。
 その落語は、俺がする必要があるのだろうか。

 高座の上から見渡す客席では、誰も彼もが笑っている。俺が笑わせているのだ。
 違う。
 笑わせているのは師匠の芸だ。俺はそれを拝借しているだけだ。
「おい半公」
 師匠、俺は。
「よせよ半公」
 自分の芸がしたいです。
「妙な気起こすんじゃねえぞ、おい」
 すみません。

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