手をゆるめれば、男は「乱暴だなあ」とぼやきながらしゃがんで足をさすった。私は彼の後頭部を見下ろす。毛のふさふさと生えた頭。履きつぶされたスニーカーは汚いが、ラフなチェックのシャツとジーンズは小綺麗で、私とたいして年は変わらないように見える。首筋は太く、シャツの胸元は筋肉で盛り上がっている。職業はボディビルダーです、と紹介されても納得できる体つきだ。
「何の知り合い? 教え子さん? それとも同僚さん? うちに何の用ですか?」
「教え子で、用件は取り立てです。お金じゃありませんけれど」
お父さん、僕に借りているものがあるんです。言いながら、男は妙に人好きのする笑みを浮かべてドアに手をかけた。
リビングのソファ、母の隣にちょこんと座り、靴下を脱いで素足をさすりながら男は口を尖らせている。ドアに挟まれた足には見事な青アザが刻まれていた。
「痛いなあ、本当なら警察沙汰ですよ」
「すみませんでした。強引だったんで、つい」
母が和三盆を口に含み、頬を膨らませたまま破顔する。
「まあまあよくいらしたわね。ゆっくりしていって」
「いやあ、ありがとうございます。それじゃ遠慮なく」
男も笑って壺に手を突っ込み、ひとつかみした和三盆をぼりぼりかじる。
「ちょっと、なくなるんでやめてください! もう買い置きがないんです!」
「これめちゃくちゃ甘いですね」
「お父さんよかったわねえ」
私は諦めて男の向かいに座る。
「いくら借金していたんですか」
いくらだったかなあ。男のとぼけた声がローテーブルへ落ちる。
「ここに来ていれば、そのうち思い出せるような気がします」
「冗談でしょう?」
男の視線はくったくなく笑う母の顔をさらりと撫で、私の目元から唇までをゆっくりとなぞり、それからリビングの調度に向けられた。父が購読していた地方新聞が山と積まれたテレビボード。もう誰も読まないけれど、解約するのも面倒でそのままにしている。その横の花瓶に生けていた花は、母が替えなくなったからドライフラワーになってしまった。本棚には父の仕事関連の書籍が詰まっている。教科の指導書、思春期のこどもとの接し方を説いたハウツー本、教育倫理の専門書。一番下の段に、申し訳程度に入れられた家族のアルバム。背表紙に私の年齢が記されている。父が開いているのを見たことはない。
リビングの外で小鳥の声がする。眺め終えた男がやっと私に視線を返す。
「来たらいいのよ、お父さんだって喜ぶわ」
母の声に「ですよねえ」と男が答え、するりと立ちあがって玄関へ向かった。来訪も急なら、去るのも急だ。「また来週来ます」という男に反論する気力は残っていなかった。第一、本当に父が男になにかを借りていたのなら断る権利はこちらにはない。