小説

『太郎の帰郷』和田東雲(『浦島太郎』)

 十一歳。三日目の朝、海岸には、「つんだらーさ」な「やらびぃ」に対して、海からのささやかな贈り物があった。亀だ。岩場を飛び跳ねて遊んでいると、その足下で、こたつくらいに大きな亀が、ずずっ、ずずっと動いている。文字通り、腰を抜かすほど驚いた太郎は足を滑らせ、岩場の上で尻を打った。もし、そのまま下まで落ちいていれば巨亀に喰われていたはずだ、と信じて太郎の心臓は縮み上がった。
 呼吸は激しく喘いでいる。目は異様なほど見開いている。しかし太郎の恐怖は次第に好奇心に色を変え始めた。太郎は一度家の方角に振り返った。母や祖母にこの事件を伝えねばと思ったからだ。しかしすぐにその考えは打ち捨てた。そんなことをして、母や祖母に心を開いたと思われるのは癪だった。これは自分で処理しなければならない、と太郎は決意した。亀は相変わらず、ずずり、ずずりと進み続けている。岩場の隙間から適当な大きさの石をかき集め、太郎は亀に向かって次から次へと投石した。巨亀は振り向きもせず進んでいく。その姿に、太郎は怒りを覚えた。太郎は自分の頭よりももっと大きな岩を抱えてなんとか岩場によじ登り、巨亀の上でそれを掲げた。怒りはもう、憎しみに変わろうとしている。

 ──ぼくを無視するな、ぼくの怒りを無視するな

 太郎は食いしばった歯の中でそう叫んだが、言葉にはならなかった。岩は、物凄い勢いで亀の頭部に直撃した。赤い血が、白い砂浜に飛び散った。亀はふにゃふにゃと甲羅の中に縮んでいき、やがて完全に動きが止まった。
 生き物を殺すのはこれが初めてだった。それもこんな巨大な生き物を。太郎の肺の中いっぱいに、黒い灰汁が溜まった気がした。取り返しがつかないことに気が付いて、太郎は震えだした。
 しかし、亀はだらしないヒトデみたいに、うねうねと首や手を伸ばし始めた。すんでのところで命が肉体にしがみついている。太郎は殺害の罪を免れて安堵するどころか、かえって脅えた。口を封じなければと思った。喋れない亀の。太郎は崖を飛び降ると、赤い血で濡れた岩に飛びつく自分を見つけた。逃がさない、と太郎の中で誰かが囁いた。抱き締めるように岩を持ち上げると、太郎はゆらゆらと亀の正面に回り込んだ。血塗れの亀は、尖った嘴を狂おしく開いて威嚇した。右の目玉は潰れ、そこから真っ赤なとびこみたいな粒が噴きこぼれている。恐怖が太郎を勇敢にさせた。殺るか殺られるかの思いで、亀の頭めがけて岩を放り投げようとしたそのとき、

 ──ビュッ

と鋭い音がして、鼻先を何かが通り抜けた。太郎は岩をドサリと落とし、自分も尻餅を付いた。
 釣り竿を手にした白髪の男が、逆光の中で立っていた。顔は皺だらけだが、背筋はすんと伸びている。鋭い眼光は、何処か太郎を憐れんでいるようにも見える。男はリールを巻き取りながら近づいて来る。思わず太郎は目を瞑ったが、すぐに泪が溢れてきた。
 震える肩で目を開けると、男は亀の頭を撫でていた。亀は左の目を細くして、すっと首を伸ばしている。太郎は女郎のように膝を折って、細い声を振り絞った。
「だ、だまっててください。お願いします」

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