小説

『太郎の帰郷』和田東雲(『浦島太郎』)

 振り返った男のまなざしが刺すように痛い。
「待っとれ」
 それだけ言うと、男は亀の背後に回り、ずっ、ずっ、ずっ、と海へ向かって押し始めた。聴こえないくらい小さな声で、男は亀を励ましていた。太郎は小便が漏れそうなって、膝をすり合わせた。しかし我慢出来なくなって、男の視線が亀から離れないように祈りながら、岩の影に隠れて放尿した。膝が震えて、足の付け根に少しかかった。気持ち悪くて砂で小便を拭っていると、背後にはもう男が立っていた。遠くで亀の甲羅が沈んでいくのがちらりと見えた。
 男は顎をくいっと岬の方にしゃくり、「ついてこい」と太郎に命じた。男は振り向きもしなかったが、逃げることは出来そうになかった。

 男は海岸線を歩いていくと、やがてけもの道を切り分けるように登り出した。一体どこまで行くのだろうと、考えれば考えるほど恐ろしかった。きっと殺される。ほんとうにこんな島にくるんじゃなかった。生まれたのが間違いだった。何もかもが哀しかった。人生のすべてに諦めて、屠殺場に向かう豚の気持ちで、男の背中を追いかけた。

 男が連れてきたその建物は、家と言うには余りにも風変わりだった。家の前には手彫りの井戸が有り、ドアのない玄関の前には、ちょうど太郎の背丈くらいある真っ赤な魚が吊るされていた。魚は大きな目玉をぎょろりとさせたまま、ぽたぽたと血を滴らせている。
 家の中には土間が続いていて、竃と羽虫の浮いた水がめがあった。男はひしゃくでその水をごくごくと飲むと、もう一度水がめのなかから水を汲み、無言で太郎に差し出した。生きた心地のしないまま、太郎は水を飲み干した。
「いくつんなった?」
と男は訪ねた。
「じゅ、十一歳です」
「ふん」
 男はひしゃくを太郎から奪い、背を向け、床の間に上がった。それから炉端にどてっと座って煙草を吸った。男の様子を眺めながら、どうにかこの場所から逃げ出せないかと太郎は考えたが、それはもう不可能だった。帰り方も分からない。十一歳。男が妖怪なら、ぼくは食べ頃なのかも知れない、と太郎は青ざめた。
「太郎、ここん座れ」
 男は自分の斜向かいを、とんとんと火鉢で叩いた。名前をなぜ知っているか、確かに疑問ではあったが、それは今考えても仕方がなかった。太郎は命じられるままに、床の間に上がり、縮こまって正座した。
「千と五百十一歳」
 男は目を細め、溜息のように大きな煙を吐きだした。
「あの亀。おめえより、ちょうど千五百歳、年上だ」
「……か、亀ですか?」
「ありゃあ友だ。ずっと、昔からの。なんだかな、胸騒ぎがしたんさ。長く生きとりゃそういうこともある」
 沈黙が訪れると波の音がする。寄せては返す、単調なリズム。部屋の中は潮風と、草木のむっとする匂いと、煙たい煙草の臭いでいっぱいだ。
「おめえ、依子に会いに来たんだろう」
 依子とは太郎の母の名前だった。

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