小説

『グロキシニアの火』菊武加庫(『智恵子抄』)

 危篤の知らせを受けてゆっくり歩きながら、最後の場面の小道具にふさわしいレモンを途中で買って病室を訪れた。白く明るい死の床にいる沙和子がそれを受け取り、一口齧る。彼女は一瞬だけ昔の彼女に戻り、生涯の愛を一瞬にかたむけた。色合いも,採光も完璧なその場面は真実であり、とんでもない嘘でもある。奏吾は今、その場面を舞台の上に再現することを思った。時間をかけて昇華させて。
 枕頭のグロキシニヤが黙って咲いている。それは彼の目に映るだけで,鉢の花はすでに枯れている。腐った花の根元だけが、地中で熱を持っていることに奏吾は気がつかない。

 沙和子に会いに行ったのは半年ぶりだった。会わないその半年の間も沙和子は一人で舞い続けていた。彼女自身もまた、自分の創り出すものがすべてという人種であったのかもしれない。
 二人の呪いは沙和子の上でのみ解かれ、妻は空を飛ぶ鳥になった。

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