小説

『睡蓮の雫』齊藤P(『浦島太郎』)

 乙姫のデスクに近づき、自分も書類に目を落としてみる。そこには善良そうな青年の顔写真が貼り付けてあった。書類には確保対象となる人物の名前、顔写真、住所と、これから犯すであろう犯罪が記載されているのだが、写真を見る限りとてもこの青年がこれから犯罪を犯すようには見えなかった。しかし神がそう予測したのであれば、そうなのだろう。
「名前は『浦島太一』ね。こんな虫も殺せないような顔して3つも犯罪犯すとか、やっぱり人間ってロクでもないわ。すぐにエージェントを呼んでくれる?」
「わかりました」
「…それにしても『浦島』。『浦島』ねぇ…」
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもないわ。どこかで聞いたことあるような気がしただけ。じゃ、よろしくね」
 そう言うと乙姫は再び報告書の作成を始めた。
 乙姫は基本的に人間が嫌いだ。収容依頼書に目を通すときはいつも嫌悪感を丸出しにし、なぜこんな劣悪な種族が地上で繁栄しているのか全く理解できないといった顔をしている。彼女が人間に対して好意的な態度を取るところなど想像もつかない。
 であれば。先ほど「浦島」の名前を見たとき、ほんの少しだけ微笑んだように見えたのは、単なる私の見間違いだろうか。
 部屋を出るとき乙姫の方を振り返って見たものの、そこには黙々と仕事をこなすいつもの彼女がいるばかりだった。

 執務室全体が黒煙で満ちている。先ほどよりも漆黒に近い気がする。理由は明白だった。
「お疲れっす乙姫!調子どうすか?あれ、なんか暗くない?昆布食べますか、俺の食いかけだけど」
 この亀のせいだ。竜宮城で働いているスタッフは私のようにリクルートされた人間や乙姫のような人魚がほとんどだが、このように例外もある。
「ちょっとアンタ!エージェントを連れてこいとは言ったけど、よりにもよって何でコイツなわけ?」
「誤算でした。まさか亀山さん以外のエージェントが熱海の海に弾丸旅行へ出かけてしまっているとは」
「なにそれ聞いてないし!私も連れて行きなさいよ!」
「怒るところそこですか?」
「人望ないんじゃないっすか、乙姫」
「お黙りこの爬虫類。スープにされたいわけ?」
 うあー、と力なく背もたれに体を沈める乙姫。彼女の気持ちは理解できる。この亀、亀山さんは収容依頼書をもとに危険人物の確保、連行にあたる竜宮城のエージェントだ。エージェントである以上、それ相応の力量はあるのだが、何しろこのエージェント、致命的に仕事が遅いのであった。以前傷害事件を起こす予定の人物の確保に向かったときも結局確保が期限ギリギリになり、ほとんど現行犯確保して乙姫を大いに憤慨させた前科がある。あとなんかチャラい。仕事をバリバリこなすタイプの乙姫とは、とにかく相性が悪いのだ。

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