小説

『腫れ物地獄と純粋めいた愛』あざらし白書(『笠地蔵』)

「小松石のこと気にしている、って言ってたっけ?」僕は、とんちんかんな返答をして、そしてすぐに後悔した。そんなことを言いたいわけじゃないのに、突然の状況に少年みたいに動揺をしているのだ。
あっちゃんはそれに対しては何も言わずに、ただ「きて」とだけ言う。僕のことを、ベッドの中から静かに、恥じらいながら手招きをしていた。「いいよ」と、微笑むその顔は、どうしようもなく僕の心をめちゃくちゃにした。
「でも、俺には妻もいるし。そう、アイジ、子どももいるし。俺はあいつらのことを裏切れないよ」
よくもそんな往生際の悪いことを言えたもんだと、第三者的に僕も驚いていた。それでもあっちゃんは、何も言わずに笑っている。
「地蔵くん、私のこと嫌い?」と、しばらくしてからあっちゃんは言った。
「嫌いなわけない。嫌いなわけ、ないじゃん。そういう意味じゃないけど…どうしたらいいかわからない」と、下を向きながらやけに饒舌な僕が喋る。
「それじゃあ、私のこと、一番好き?」
そう言われて、僕はハッとあっちゃんを見上げた。一番、だったっけ。
そもそも、僕はあっちゃんにそんな想いを抱いていたんだろうか。いや、抱いていたのかもしれない。誘われて、本能から喜んでいる僕がいる。この感情は、今にはじまったことではない。それよりも前から、あっちゃんは僕の中に常にいたはずだ。同じクラスだったとき、学校帰りに少しだけいい雰囲気になったとき、働きはじめてあまり会わないようになったときまでも、あっちゃんは僕の中に確かにいた。あっちゃんはいつも笑っていた。確かに、いつも笑って僕の中にいたのだ。それは、一番好きということと同義なのだろうか?
何かを言おうと口を開けると、言葉が何もでてこなかった。その代わりに、キョウコに出会ったとき、結婚をしたとき、アイジが生まれたとき、“ローリング・ごろんごろん”をしているとき、三人でご飯を食べているときのことがどんどんと頭を巡っていく。すごく幸福な気持ちだ。この二人だって、僕の中にずっといるじゃないか。僕は何も言えずに立ちすくんでいた。
「ねえ、私のこと、一番?」あっちゃんは、知らない間に僕の横に立って、耳元でそっとささやく。僕の右腕あたりに押し付けられた庵治石の胸は、思っていたよりも柔らかく、僕の心臓の鼓動はますます早くなっていた。緊張からか、高鳴る心臓の音はもはや聞こえてこなかった。
「地蔵くん、いいよ」と、あっちゃんは僕の耳元でふふっと笑った。
「きて」と、ベッドに導かれる僕。幸福の階段を、一歩ずつ進んでいるような気分。最後の抵抗とでも言うべきか、あたかも自分の意思では歩いていないということを僕は装った。手を引かれて、仕方なく、本当は自分の心はここにないんだということを、誰に見せるわけでもなく演じていた。
ポンッと背中を押されて僕はベッドに横たわる。ベッドは白くて、ふかふかだった。あっちゃんも僕の右横に倒れ込み、左側に、僕のほうへ顔を向けて笑っていた。僕は、あっちゃんの澄んだ瞳に改めて吸い込まれそうになる。
「いいよ」と、あっちゃんは何度目かわからない言葉をぼそりと呟いた。そうして、静かに僕にキスをした。

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