小説

『笑う男』矢澤準二(『猫町』萩原朔太郎)

 頭を押し付けるような雲が空を覆った蒸し暑い日だった。常磐線の電車が日暮里駅に滑り込み、ドアが開いてホームに降り立った時、卓郎は軽い違和感を覚えた。
 別の番線ホームに行く高架橋に上る階段に並ぶ人の列が、いつもより長い。階段全体を見渡すと、その中段に、じっとしている三人のいることが判った。人々はその三人を迂回するように上っていく。あれが渋滞の原因らしい。
階段の真中より左寄りに、上りと下りを分ける金属の手摺がある。その左側は本来下り専用なのだが、朝のその時間帯には、上る人が圧倒的に多いので、自然と階段全体が上りになっている。動いていない三人は、右に一人、左に二人、手摺の両側にいる。
 手摺の右にいる男だけ顔を下に向けている。卓郎は、頭髪の感じから、自分よりかなり若いと思った。四十代後半くらいだろう。痩せ形の身体に、白い半袖のワイシャツを着て、紺のネクタイをしている。見た目は実直そうなサラリーマンだ。
 手摺の左側にいる二人のうちの一人は、黒い背広を着ている。背中を向けているので顔は見えない。背広の腕を上に伸ばし、金属の手摺越しに、白い半袖シャツの男の両腕の肘の辺りを、太い腕で押さえている。三人目の男は、薄い茶系の背広を着ている。黒い背広の男の後ろから、両手で男の肩を押さえている。
 喧嘩かな。卓郎は初めそう思って、心臓の鼓動が速くなる気がした。でも、喧嘩にしては静かすぎる。それに、もしも喧嘩だったら、周囲の人はとばっちりを恐れて、遠巻きにして見るはずだ。階段を上る人々は、三人の脇を、それほど隙間を空けずに上っていく。速度はいつもより遅いが、階段への人の流れは確実に進んでいる。喧嘩ではないのかな。がっかりしている気持ちに気付いて、卓郎は心の中で軽く笑った。
 卓郎が階段を上り始めると、白い半袖シャツの男の顔がはっきりと見えてきた。口をへの字に曲げて、自分の両腕を押さえている男の顔を見ている。足を踏ん張って、下にいる男の手から、自分の腕を引き離そうとしている。しかし、両腕をがっちりと下の男に押さえられていて、それができない。額は汗で濡れている。それが薄い日の光を受けて鈍く光って見える。
 三人の男のいるそばを過ぎる時、黒の背広の男の横顔が見えた。多分三十代の半ばくらいだ。肉付きのよい、がっちりとした身体つきをしていて、顔も大きい。眉毛が太くて濃い。眉毛の下の目を、上目遣いにして、上の男を睨みつけている。
 三人目の男を十分観察するには、時間が足りなかった。多分二十代だ。そこまでは判った。でも、何かが変だった。その何かの正体が判る前に、男の顔は卓郎の視野から消えた。
 渋滞のポイントを過ぎると、急に人の流れが速くなった。卓郎は歩きながら振り返ってみたが、上ってくる人の身体の陰になって、もう三人の男たちは見えなかった。

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