小説

『笑う男』矢澤準二(『猫町』萩原朔太郎)

 新橋方面に行くホームに下りた。アナウンスがあり、卓郎のいるホームに電車が入ってきた。卓郎は電車に乗り込み、入口と反対側のドアの硝子窓に身体を寄せて、さっきのホームを見た。
 ホームの上にはまだ、階段までの長い人の列ができていたが、列の長さも人の流れの速度も、いつも通りだ。どうやら、あの三人のつくっていた瘤は、解消されたようだ。
 では、あの三人はどこに消えたか。バラバラになったのか。あるいはまだどこかで一緒にいるのか。バラバラになったとしたら、どうやってあの黒い背広の男の掴んでいる手がはずれたのか。まだ一緒にいるとしたら、どこで何をしているのか。
 最後の瞬間に残った変な感じの理由は何だろう。卓郎は、ほんの一瞬だけ見えた三人目の男の顔を、できるだけ正確に頭の中に描こうとしてみた。若い男だが、どちらかというと、かわいげのある顔だ。何かに似ていた。何だろう。その時ふと、柴犬の顔が頭に浮かんだ。あの時感じた違和感は、そのせいか。
 どうも、それだけではない気がする。あの顔は笑っているように見えた。それが違和感の正体だろうか。あの状況で笑うというのは、いかにも不自然だ。
 卓郎の乗った電車は、時々速度を緩めながらも、順調に進んだ。降車駅に近づくにつれ、気分は仕事モードに切り替わっていく。駅に着き、改札を出る頃には、さっきの光景はほとんど、卓郎の頭の中から消えていた。

 卓郎は、五時半の終業チャイムが鳴ると、手早くデスクの上を片付け、誰にともなくお先にと呟いて、席を立った。周囲はまだ忙しく働いているが、定年過ぎの再雇用者がいくら早く帰ろうと、気にする社員は誰もいない。
 その日は、高校時代の友人と飲む約束があった。二十年以上通っている烏森神社近くの小料理屋に予約を入れていた。友人とは三か月に一度は飲んでいる。明るくて冗談のうまい男だが、親譲りの小さな企業の経営者なので、いろいろ苦労が多いらしい。サラリーマンにはあまり実感のわかない愚痴を聞いてやるのも、古い友人の義務だと思っている。
 カウンターの中にいる一つ年上のママを交えて飲んで、十時前に店を出た。もう、はしご酒をする若さはない。友人とは新橋駅で別れた。ちょうど来た上野方面行の電車に乗った。うまい具合に優先席に一人分の席が空いていた。迷わずそこに座った。
 気がついた時、秋葉原を過ぎていた。危ない、危ない。卓郎には、酒を飲んで電車の座席に座ると眠り込んでしまうという、悪い癖がある。京浜東北線で大宮あたりまで行ったことが数回ある。山手線の終点の大崎のホテルに泊まったことが二度ほどある。
 卓郎が顔を上げると、若い小柄な男が前に立っていた。男は吊革には掴まらず、スマホに何か入力している。その顔に見覚えがあった。柴犬? そうだ。今朝日暮里駅で見た三人の男の内、一番若い男だ。

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