小説

『クロックワーク・タイム』菅原照貴
(inspired by 小説『天地明察』)

 肝心なものほど目には見えない、と言ったのはどこの王子様だったか。
 何にせよ、彼の発言は的を射ている。いつか優秀な王となったに違いない。人を統べることについて、最も重要な事実を心得ている。
 つまり、最高の権威とは常に透明であるということを。
 人は五感で捉えられないものへ抗うことを苦手とする。見えないものは隠せない。聞こえぬものは打ち消せない。触れぬものは避けられない。屈伏する外ないことを悟った人の多くは、諦めて鈍感になることを選択し、やがて両手を広げて「それ」を迎え入れるようになる。
 故に人の上に立つ者の多くは自らの嘘や暴力を透明な「それ」の中へ塗り込もうとする。そして中でも狡猾な一握りは、透明な「それ」の増産をも図る。
 例えば、白という色。例えば、静寂という音。例えば、空白という間。
 確かに存在するのに、いつの間にか「無」の象徴となってしまった概念の数々。終いには何かの拍子で「純粋」だの「平安」だのという付加価値が付いたりして、いよいよこれらが何を塗り潰し、何を圧し殺し、何を消し去ったのか想像するのも難しくなる。
 そうして誰も疑いの目を向けなくなった頃になってようやく嘘と暴力は本性を現すのだ。
 不都合な真実を透明にする力――これこそが権力の正体だ。
 抗うには「それ」に気付く必要がある。だが、自分が金魚鉢の中にいると自覚することが金魚にとってどれだけ困難なことか!

 白と静寂と空白とをただ寄せ集めただけで人の精神に最も良く作用する部屋が出来ると思った奴は、浅慮を通り越して最早馬鹿だ。男はそう結論した。そんな部屋に心の歪んだ患者を押し込めたところで、狂気が正気になびこう筈もない。むしろ逆効果だ。
 男のいるその部屋は四方の壁に満遍なくクッションが敷き詰められていた。万が一、自分から突進するようなことがあったとしても大事に至らぬように。同じ色の床にも、リノリウムの廊下より幾らか弾性のある素材を使用していた。
 それでも頭を思い切りぶちつけたら、或いは。
 彼は一時間近く前に四肢を拘束椅子へ固定されてからずっと、この状態で自殺を図るにはどうすれば良いか想像を巡らすことで暇を潰していた。
 両手首の関節を外して手の拘束を解除するのに二秒弱。残り、足と胴のベルトを抜けるには三秒前後。ドアの前でこちらに睨みを利かせている屈強な二人が異変に気付いてから接近するまで、六……否、七秒。道具なしで自殺を図るに一、二秒は流石に辛い。他の場所なら手っ取り早く舌を噛み切るところだが、何せここはそんなことが日常茶飯事そうな精神病棟。出血死対策の一つや二つは打っているに違いない。

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