季節は秋に入ろうとしていた。夏休みの終わりに夏織に会って以来、柚珠とは一回も会って いなかった。
待ち合わせの代々木公園周辺はずいぶんと冷え込んでいた。約束した場所には三十分も前に着いた。
当然柚珠の姿はまだ見当たらなかった。
NHKホール付近の代々木公園へと続くその道には、あたりまえのように空きカンやビニール袋が捨てられていた。
柚珠と何を話したら良いのだろう。私の中で結論はまだ出ていなかった。まだ柚珠を受け入 れる覚悟が私は出来ていない状態で会う約束をしてしまっていたことに気がついた。
そんなことを考えていると柚珠が手を振りながらこちらへやってきた。久しぶりに見る柚珠の姿に鼓動が高鳴った。やはり彼女は美しかった。左手には私たちの今までの会話が詰まっ たノートが大切そうに握られていた。
ノートに何か文字を書きだした柚珠を私はそっと抱きしめた。私はもう私が分からなかった。ただ、目の前に居る柚珠を抱きしめずにはいられなかった。その後彼女は私の頭を抱き 合ったまま数回なでた。私は頬に冷たいものを感じた。抱きしめていたと思っていた私は、抱きしめられていた。
彼女はすっと身を引くと、ノートに書いた。
“旭、もう無理しなくていいよ。”
私は何が起こっているか分からなかった。
彼女は花壇に腰かけまたノートに続きを書きはじめた。
“私も少しの間色々考えた。旭との事。私、もちろん旭の気持ちに気づいていた。
でも、旭はなんで私を好きになってくれているのか分からなかった。
ねえ、ミロのヴィーナスって知ってる?” 私はうなづいた。
柚珠は続けた。
“ミロのヴィーナスってなぜか魅力的だよね。
両腕がないんだけどそれが返ってどんなポーズをとっていたかって想像力を掻き立てること で美しさがさらにプラスされる。不思議な魅力があるの。
仮にミロのヴィーナスの両腕がついていたら、ここまで魅力的ではなかった。足りない部分があるからこそ、想像力が刺激される。
「不完全」ゆえの美しさでそれが魅力になってるの。多分、旭は”
そこで私はペンとノートを取って、ノートを閉じた。その先は見たくなかった。込みあげる気持ちを抑えきれず私はもう一度彼女を抱きしめた。
「…………ねぇ、声をきいて…。」
「…声を…聞いてよ…。」
「私は………」
「私は柚珠の耳にはなれないのかな」
柚珠は旭が声を出しているのが振動で分かっていた。
私は聞こえるはずのない柚珠に向かってそうささやいた。彼女の耳元には声と同時に息もかかっていた。そっと彼女の髪がゆれた。
それから柚珠は私の涙が伝う頬に静かにキスをして歩いていった。一度も振り返らなかった。私はずっと見えなくなるまで彼女の姿を目で追っていた。呼び止めることも、引きとめ ることもできなかった。私の右手にはノートがあった。
私はその場所からいっときは動くことができず、彼女が去っていった方向を向き、じっと立 ちつくしていた。
* * *