長さんは色んなことを話してくれるようになったが、自分の過去には触れない。私の知る長さんの過去は、私と出会った一年前までしか遡ることができない。それ以外は……六十八年前、浅草に生まれたことくらい。
最近、よく父のことを考える。その日の帰り道もそうだった。ふと、顔を上げると、陽の落ちた電車の窓は、まるで鏡の如く私の姿を映し出していた。暗闇を背景に、赤いポロシャツが強く浮かび上がる。その力強い赤とは対照的な情けない顔。私は顔を引き締め、背筋を伸ばした。
武山第二病院から事務所へ連絡があったのは、その二日後。長さんが転倒して救急搬送されたという一報だった。私は急いで病院へ向かった。詳しい情報は来院してから説明するということで、不安ばかりが募る。
「田中さんの、田中長三さんの部屋は、何号室ですか」
呼吸を整えることも忘れ、看護ステーションの小窓から慌ただしく尋ねた。
「田中さん……506号室ですね。突き当たりを左に行ってすぐのお部屋です」
「ありがとうございます」と発すると同時に、体は進行方向を向いていた。
506号室は個室で、それが余計に状態の深刻さを感じさせた。私は病室へ入ると、プライバシーへの配慮も忘れ、勢いよくカーテンを開けた。
「うわっ」と、腕枕をしながらテレビを見ていた長さんが、驚いて体を起こす。顔の左側に大きなガーゼがあてられている。
「あ、ごめんなさい」
「ああ、未来さん、わざわざ来てくれたんだ。ありがとう」
痛々しい容姿とは違い、いつもの長さんの笑顔に安心よりも少し拍子抜けした。
「大丈夫ですか」
「大丈夫、大丈夫。昨日の夜中、トイレ行く時にこけちゃって。念の為、これから頭の検査するけど、異常がなければ二、三日で帰れるんだ」
「良かった……」
私は足の力が抜けてその場に膝から崩れ落ちた。
「大丈夫かい」
「大丈夫……て、私が心配されてる場合じゃないのにね」
「ホントだね」と、長さんは笑った。
結局、頭部のMRI検査では何の異常もなく、長さんは二日後の夕方に退院した。
「良かったですね、安心しました」
「あのまま、ずっと入院だったらどうしようかと思いましたよ」と、長さんは絆創膏に貼り替えられた顔で微笑み、私は「退院のお祝いしないとですね」と、冗談で返した。
「お祝いか……未来さん、ホッピーって知ってます」
「はい、もちろん」
子どもの頃から常にホッピーは身近にあった。母が父の仏壇にお供えしていたのだ。
「なんで、ここに置くの?」
子ども心に気になった私は、母に尋ねた。
「あなたのお父さんがね、大好きだったのよ。だから、いつでも飲めるようにね」
私は「ふぅん」と、生意気に口を尖らせ、分かったようなフリをした。
「この辺りでは見かけないんだよね、ホッピー。久しぶりに飲みたくてね」