それが功を奏したかどうかは分からないが、ゆっくりと長さんの心は動き始めた。
「あなたの名前は?」
「生まれは、東京のどこですか?」
「次はいつ来ますか?」
一か月、三か月、半年、そして一年。
少しずつ処分したゴミの山は無くなり、生活感のある部屋となった。定期的に通院することで高かった血圧も安定し始めた。関係性が築かれたことで、長さんの生活は一変した。小さな歩みが積み重なり、やがて大きな前進に繋がったのだ。
私が長さんのことを「長さん」と呼び始めたのは、出会って半年が過ぎた頃。本当は利用者さんとの一定の距離感を保つ為には良くないのだが、長さんとの遠過ぎる距離をどうしても縮めたかった。
「ただいま」
「おかえりなさい、ありがとね」
「今日は爽やかな暑さですよ、長さん。散歩でも行ったらどうです」
「もう少し涼しくなったらね」
「寒い時は暖かくなったら、て言うくせに。足が弱りますよ」
長さんはバツが悪そうに「未来さんはキツいなぁ」と、笑う。
そう、長さんも私のことを下の名前で呼ぶのだ。訪問が始まってからひと月ほどが経った頃、私の首に掛けた名札を見て長さんが呟いた。
「未来(みく)さんか……良い名前ですね」
「ありがとうございます。田中さんも長三さんて、良い名前ですよ」
「いやぁ、あまり好きじゃない」
「そうだ、私、今日から田中さんのこと『長さん』て呼んでいいですか。私のことも『未来さん』て呼んで下さい。親からもらった名前、お互い大切にしましょう」
長さんは「恥ずかしいな」と、曖昧な言葉一つをこぼしたが、その表情は私の提案を快諾したに違いなかった。
今の長さんとの関わりは、緩やかに、そして穏やかになった。私が三十二歳で、長さんが六十八歳。それは、まるで私の経験したことのない、父親と娘のような関係。年の差だけではなく、その雰囲気には他の利用者さんとは違う何かがあった。
私には父がいない。私が二歳の時に交通事故で亡くなった。私の中にある父の姿は、ちょうど今の私と同じ歳の頃に写る遺影のイメージだ。生きていたら長さんより少し若いくらい。
長さんの家に来ると、時々、考える。父が生きていたら、こんな風に話すのかな、なんて。