抱き締めた以上は、此処(ここ)を去らなければならない。此の後に何を喋ったとしても、それはもう此の女の子の為にも、私の為にもならない。私は女の子を抱きながら、二、三回大きく深呼吸した。一瞬、更に一層泣きたくなったが、それでも私の呼吸は穏やかになった。私は女の子との別離の言葉を考え始めた。そんな事を考える自分は良くないと思ったが、それでも他に私に何が出来るというのだ。
その時、私は軌道の遥か向こうに人影を見た。遠く迄見渡す事の出来る軌道上を人が歩いて来る。遠くてよく分からないが、白い服を着ている様だ。ワイシャツだろうか。女の子を抱き締める腕を解いて彼方を望みながら立ち上がった私を見上げ、女の子も私の見ている方向に目をやった。歩行の上下の動きが激しい。あれは女性の歩き方ではない。風がやんで、原野を覆う背の高い雑草が揺らぐのが止まった。その時の停まった様な不思議な空間の中を、近付いて来る人の姿は極めて僅かずつ、大きくなって来る。それを、私と女の子は黙って、ずっと見詰めていた。
女の子が急ぎ足で、停留所の跡に駆け下りた。私も大急ぎでそれに続いた。暫く女の子は停留所の小屋の前に立ち尽くしていたが、突然三歩、前に出た。見ると胸の前に両手を組んでいる。そして直ぐに、更に二歩進んだ。もうその白いワイシャツを来た男性の姿ははっきり見える様になって来た。男性は短髪、そして丸眼鏡を掛けている。ズボンは薄い青色だった。夏らしい姿である。野良着ではないところを見ると、地元の人間が農作業から帰って来たという訳ではない様子だった。暫くすると男性の表情迄見えた。男性は、困った様な顔をしていた。よく見ると、困りながらも笑っているのだった。
女の子が走り出し、何も言わずに正面からその男性に抱き付いた。その男性は両手に持っていた鞄をその場に置き、女の子をだき抱えた。
「お前が此処(ここ)で待っていてくれるんじゃないかって、思ってたよ」
女の子は黙ったまま、身体を震わせている。何も言わない。
「済まんかった、本当に」
男性は女の子の背中をぽんぽんと掌で優しく叩くと、鞄を二つ一緒に片手に持ち、もう一方の腕で女の子を抱き、そのまま私の横を通り過ぎて歩いて行った。私は独りぽつんと停留所の小屋の前に取り残された。しかし、しかし、私はもう満たされていた。何一つ欠けたものは無かった。私はその瞬間、つい数分前に自分には他人に分けてあげる幸福は無いと信じていたのに、今はその幸福で満ちている事を自覚した。それは留まる処を知らず、滾々と湧く清水の様に私の内側を潤し、満たして行くのだった。私は何を見たのだ。私は何に接したのだ。私は、一人の子供の純真に接して、そして幸福を分けて貰ったのだった。そして何よりも大切な事に、自分が幸福になるには何が必要なのかという事まで、その時に知ったのである。
女の子の一家は今晩、どんな風に夕べの営みを持つのだろう。私はそれを想像すると言葉に出来ない程胸が温かくなり、例えるものの無い気持ちで歩き出した。私は女の子に渡しそびれた菓子パンを齧りながら、もうかなり午後の陽が傾いた原野の中を、廃線の軌道伝いに国鉄の駅に向けて歩いた。私が何もしないのに、全ては決着したのだった。私には何も出来なかった。最初からする必要も無かったのだ。分かっていた事だったし、実際何も出来なかった。
しかし、私はそれに接する事を許されたのだった。私の喜びは、次第にその事に就いての喜びになって行った。道の遠きが全く苦にならなかった。日も暮れ、遠くに市街の灯がちらほらと見える所迄来たのに、私は全然疲れていなかった。それどころかもう一度、夜の原野の闇路を軌道伝いに戻って、あの女の子と話をした場所、あの女の子が父親に縋り付いた場所迄行って往復しても可(い)いと思う程だった。最後に私は、何故か口に出したかったので、歩きながらはっきり言葉に出して言った。