私はそれ以上、何も言う事が出来なかった。何か言いたかったが、苦しくて何も言えなかったのである。しかしそのうち、胸の苦しい感じ、その閊(つか)えは治まった。それは私が今何か言う必要が有る訳ではないという事に気が付いたからである。今此処(ここ)で私が何も言う必要は無いのだ。それどころではなく、何も言ってはならないのだ。その事が自然に、恰(あたか)も砂地に水が滲み込む様に私の中に広がって来て、私はその想いで満たされた。
「お父さん、帰って来ると良いね」
「うん」
その女の子の父親が軈(やが)て帰って来るのか、それとも多くの同様の例の様に最早二度と帰って来ないのか、私には判ろう筈も無い。またその結末を知ろうとも思わない。知った処で何が如何(どう)なるだろう。私に出来る事など、有りはしないのだ。
「お嬢ちゃん、お母さんが心配してるから、もう家に帰った方が良(い)いよ」
「もう少しだけ。お父ちゃんが帰って来るのを、歩いてこっちに近付いて来るのを見たいの」
「でも、いつ帰って来るのか判らないんじゃあ……」
「でも、あたしが此処(ここ)を離れると、絶対その離れてる時に帰って来る気がするの」
「でも、家でご飯食べたり、寝たりしている時は、どうしたって此処(ここ)には居られないじゃないか」
「うん。だけどそれは仕方無いわ。あたしが家にいないとお母さんが困る時は逆にあたしが家に居ないと、お父ちゃんが帰って来たとしても『お前、どうして家でお母さんと一緒に居ないんだ』って怒られる。けれどあたしがあたしの好きにしても可(い)い時間は、此処(ここ)で待ってないとお父ちゃんが……」
「……お父ちゃんが?」
「怒りはしないけど、こっそり悲しむと思うの。あたしが此処(ここ)でお父ちゃんを待ってなかった事を」
此れ以上の説得は、あまり意味が無いだけではなく、屹度(きっと)此の女の子にとって有害なのだ。私は女の子と、その父親の為人(ひととなり)に就(つ)いて話をする事にした。私はまだその場所を離れたくなかった。いや、女の子と別れたくなかったのだ。
「お嬢ちゃんのお父さんって、どんな人なのかな?」
女の子は急に活々(いきいき)とした表情になって話し出した。
「時々お母さんと喧嘩もしてた」
「そう」
「でも、お父ちゃんから仲直りする事もあるし、お母さんから仲直りする事もあるの」
「そう。良いお父ちゃんとお母さんなんだね」
「うん。それにね、お父ちゃん、いつも寝る前にお母さんの按摩してあげるのよ。喧嘩してる時でも」
「ほおおー、それは何より素晴らしいね」
「多分、お父ちゃんはお母さんの事を大切に思ってるんだと思う」