瑞希は、目を閉じて動かない正之に向かって童話を読み始めた。
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。・・・」
瑞希が読んできかせたのは、かぐや姫の物語だった。正之はじっと目を閉じたままで、顔の表情も変わらない。たまに顔の表情が変わることが有るけど、それは看護師に聞いたところ、顔の筋肉の痙攣らしい。
晴樹と瑞希は、子供なりに頑張っていた。瑠璃子の想像を超えて、一週間以上、毎日通い続けている。入院からすでに、一か月が過ぎた土曜日、晴樹の土曜講習が休みだったから、瑞希は部活を休んで、お昼前に病院へ向かった。弁当も自分たちで作っていた。
「パパ、今日は童話を二冊持って来たからね」
そう言って瑞希が一冊目を読み始めた。
「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに・・・」
「あ、それ、桃太郎だろ」
晴樹が途中で口を挟んだ。
「そうだよ」
「そう言えばさ、父さん、自分で作った童話を俺たちに話してくれてたよな」
「あーっ、分かる。おばあさんが桃に包丁を突き刺すやつでしょ」
「そうそう、中なら出て来た桃太郎が、危ないじゃないかって、怒るんだよ」
「覚えてる。毎晩、大爆笑だったよね」
「じゃあ、瑞希、その父さんの童話を話してやれば」
「そうだね。パパ、爆笑しながら起きたりしてね」
瑞希は、遠い昔を思い出すように、じっと頭を巡らしていたようだが、どうやら、思い出したようだった。頭の中に入っている物語だから、本を読むわけではない。瑞希は正之の顔に向かって物語を話し始めた。
「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。洗濯をしていると、大きな桃が流れて来たので、おばあさんはその桃を拾い上げて家に持って帰りました・・・」
物語は建設的な展開をする訳ではなく、桃を切るときに刺されそうになった桃太郎がおばあさんに文句を言うと、おばあさんは包丁を持って桃太郎を追い回す。そこにおじいさんが帰ってきて、もうひと騒動が起こるという、くだらないストーリーなのだけれど、幼い頃、普通の絵本に飽きた晴樹と瑞希は、正之の作ったおとぎ話に爆笑して、それから眠りにつくという日々が続いたのだった。
「おい、瑞希。父さんの顔が笑ったみたいな気がする。見てみろよ」
「えっ、ホント?」
瑞希が目を向けると、正之の顔が、もう一度、一瞬だけ笑ったような顔になった。
「あー、笑った。笑ったよ、お兄ちゃん!」
「ねえ、パパ、パパ! 聞こえる? パパ」
瑞希は正之の寝顔に、一生懸命話し掛けた。