9月期優秀作品
『もう一度家族になろう』川村文人
「明日から出張だし、早起きしないといけないから、そろそろ帰るよ」
「まあ、大変ね。気をつけてね」
正之は、昼ご飯を食べ終え、妻の瑠璃子が淹れたインスタントコーヒーを飲み干すと、食卓を離れて、帰る用意を始めた。気が付けば、単身赴任もすでに十年目だ。一年目の頃は、月に一度は帰っていたけど、それが二か月に一回になり、やがて半年に一度になり、ここ三年は、正月以外、親戚の葬式や結婚式でもなければ帰っていない。
今回は、長男の晴樹が、来年の高校二年生からは、希望進学先ごとのクラス分けになるから、相談に乗ってやって欲しいと瑠璃子に言われて帰って来たのだった。
本当は出張の予定など無いのだけれど、家にいても落ち着かないのだ。単身赴任が長くなっている間に、次第に我が家という実感が無くなっていった。もちろん、帰ってくれば、妻の瑠璃子が「お帰りなさい」と言って迎えてくれるのだから、自分の家に間違いないのだけれど。
ひょっとしたら瑠璃子も、出張の予定など無いことを察しているのかも知れない。でも、確かめようという気も無い様子だ。
昨夜着替えた下着とポロシャツは、瑠璃子が昨夜のうちに洗濯機を回しておいてくれたから、何とかぎりぎり乾いていた。紙袋に乾いた洗濯物を押し込んで、車の後部座席に投げ入れた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「体に気を付けてね」
玄関先で瑠璃子に送られ、500ミリリットルのお茶のペットボトルを一本手に持って、正之は玄関ドアを開けた。
車のエンジンを掛けて、ゆっくりと走り出す。走り出してバックミラーを覗くと、右斜め後方に我が家の玄関が見える。扉は閉まり、人の姿は無い。
転勤して間もない頃は、瑠璃子と長男の晴樹、長女の瑞希の三人が、ずっと手を振って見送ってくれていた。長男の晴樹は、時には「行かないで」と言って涙を見せた。三歳の瑞希は天使のような笑顔で「また来てね」と言ったっけ。
家を出て百メートルほど走った角を右折するのだけれど、車が見えなくなるまで手を振っている三人に分かるように、正之は右に曲がる直前にブレーキランプを小刻みに点滅させて、別れの合図をしたものだった。
浜中正之は、今年で四十六歳になった。電子部品の販売商社に勤務している。新潟市に有る新潟支店から、長野県上田市に有る長野支店へ、十年前に転勤になった。転勤当時は長野支店販売一課の係長だったが、転勤から五年後、長野支店で、販売一課の課長に昇進した。
長野支店から新潟市の自宅までは、車で三時間ちょっとの道のりだ。遠いと言えば遠いし、近いと言えば近いような距離だ。
転勤が決まった当初は、三、四年くらいで戻って来る予定だった。上司からも「少し外の空気を吸ってこいよ」と言われた程度だったのだ。