転勤を告げられた当初、正之は家族みんなで行くつもりだった。ところが瑠璃子が良い顔をしなかった。長男の晴樹には、小児喘息の持病が有った。そのため幼稚園も休みがちだった。それでも幸いにも友達が大勢いたから、幼稚園に行きたがらなかったりすることも無い。
瑠璃子の意見としては、引っ越して環境が変わると、喘息が悪化するかもしれないし、それに幼稚園も休みがちだから、新しい幼稚園に移ったら、なかなか友達が出来ないかもしれない。そんなことを考えると、今の家を動きたくないと言うのだった。
確かに瑠璃子の言うことももっともだと、正之は思った。小児喘息は成長するにつれてだんだんと治って行く可能性が高いらしいのだが、それでも環境が変わったりすれば、どうなるか心配だ。
一応、会社からは単身赴任手当も出るようだし、それに、瑠璃子も正社員で働いているから、それなりに収入もある。余り贅沢をしなければ、新潟市と上田市の二重生活でも、なんとかやって行けるだろう。
そんなことを話し合って、結局正之は、単身赴任で長野支店に勤務することとなったのだった。
九月の第二週目の木曜日、顧客である南信エレクトロニクスに午後一番に訪問する約束だったが、会社を出発するのが遅れて、昼休み返上で車を走らせていた。すると、ワイシャツの胸ポケットに入れていたスマホのバイブが着信を知らせた。画面を見ると、相手は妻の瑠璃子だった。車を路肩に寄せて停め、電話に出た。
「もしもし」
「あー、パパ、今、暇?」
「暇じゃないよ。客先に向かって走っていたところだよ。何か用か。」
「晴樹がね、来年から、希望進学先別のクラス分けになるのよ。あの子、東京の大学に行きたいらしいの。私、東京の大学なんて、全然分からないから、帰ってきて相談に乗ってやってよ」
「クラス分けの希望を出すのか?」
「そう。国立とか私立とか、文系とか理系とか。一応、希望大学名も書いて出さなきゃいけないのよ。九月二十日提出だから、パパ、この週末、帰って来てよ」
「今度の土曜はゴルフの約束が入っているんだ」
正之は、あまり気乗りしなかった。だいたい、晴樹が自分に相談したいと思っているような気がしない。
「ねえ、ゴルフと自分の子供と、どっちが大事なの。パパも親でしょ!」
パパも親でしょ、は、ここ何年かの瑠璃子の決めぜりふだ。これが出てしまうと、もう、何を言い返しても無駄なことは分かっている。
「じゃあ、土曜日に帰るよ」
「ねえ、せっかくだから、金曜日にお仕事が終わったら、そのまま帰ってきたらどう? たまには子供たちとゆっくり話でもしたらどうかしら」