雅子には会社の飲み会だということにして、信頼できる部下を居酒屋に誘った。
「そりゃ、みんな口を開いて寝ていますから、口とか喉が渇いて臭いが立つものじゃないですか。たまたま臭い日だったんですよ、そういうこともありますって」
「そっかー……でも、僕ももう若くないし、何かの病気のサインだったりするのかなあ」
「やめて下さいって、縁起でも無い。先輩が倒れたらプロジェクトが吹っ飛びますよ。あんまり気になるのなら、歯医者に行ってみてはどうです? 餅は餅屋ですよ、専門の人間に聞くのが一番です。出来ることから始めるべきって、部長いつも言っているじゃないですか」
歯医者に行くくらいでこの家庭問題が解決されるならそれは素晴らしいことだが、それは流石に飛躍のし過ぎだろう。それでも僕は、行き慣れていない歯医者に解決の糸口を期待してしまっていた。
次の休日、僕は最寄りの歯科医院へ足を運んでいた。
最近の歯科医院はよく出来ている。他の患者に話を聞かれないように、一つの部屋に一つの診察台しか置かれていない。案内をされるがままマッサージチェアのような柔らかい診察台に座ると、皺一つない白衣を纏った男性が奥からやってきた。間もなく診察が始まる。一通りの検査を終えた段階で話が始まった。
「虫歯もないし歯周病でもありませんが、口の乾燥が強いですね」
「乾燥?」
「加齢と共に唾液を作る機能は落ちてしまいます。唾液には細菌をやっつける効果がありますから、唾液が少なくなることで口腔内の細菌が増えることがあるんですよ。話をお伺いする限りでは、人間ドックで消化器系の臓器に問題はないと診断されているようですし、気にされている臭いというのは、そこから来ているのかもしれません」
つまりは老化現象だ。換言すれば『仕方がない』の一言で終わってしまう診断内容に、僕は内心で頭を抱えた。老化現象にどう立ち向かえというのか。手の打ちようがないと宣告されているようなものじゃないか。
「じゃあ、僕はどうしようもないんですね」
つい口から不満が漏れていた。八つ当たりのような言い方になってしまったが、苛立ちが抑えられなかった。部下には『出来ることから始めろ』なんていっておいて、その言い出しっぺが一歩目から躓いている有様なのだから苛立ちもする。こんな体たらくだから、娘に舐められてしまうのだろうか。
「いえ、お勧めしたいものがあります」
担当医が持ってきたのは、ペットボトルよりもやや小ぶりのボトルだった。
「一般的な洗口液ですが、適切に歯磨きを行ったあとに使うことで、口臭と乾燥を防ぐことが出来ます。今はノンアルコールタイプの物が多いので、刺激が強いのが苦手な方でも、安心して使えるんですよ。薬ではなく、商品の分類としては医薬部外品なので、処方ではなくご自身でご購入していただくことになりますけれども」
試す価値はあるのかもしれない。何もしないでじっとしているよりマシだ。待合にディスプレイされていた洗口液のうち、CMで見たことのあるものを購入することにした。