飯屋の暖簾をくぐると、すずが目線をよこした。碓氷と目が合うとにこりと笑い、注文も取らずに奥へと駆けていく。毎度同じものを頼んでいることを覚えているらしい。継ぎの当たった赤い着物の袖が、蝶のようにひらひらと舞った。
碓氷は手近な席に腰掛け、周りを見渡した。初夏の夕暮れとあって、客のほとんどは着流し姿に薄手の羽織りを引っ掛け、酒と湯にあてられて顔を赤く上気させている。同じような着流し姿ではあっても、白白とした顔でむっつりと座っている自分は一体どう見えるだろうかと、碓氷は思い描いた。ぶらぶらと遊び歩く不良学生、或いは心身を病んだ若者。いずれにせよ、碌なものではあるまい。
碓氷は苛々と指で卓を叩いた。葉芽留宿は数年前の大戦景気の頃から湯治場として知られるようになった小さな里だが、碓氷の目的は湯でも観光でもない。仕事だ。
碓氷はとある連中に雇われている。大きな組織らしいが、詳しいことは何も知らない。碓氷はただ言われるままに仕事を片付け、報酬を受け取るだけだ。その報酬がまた良い額なので、職のない碓氷にとってこれは大切な稼ぎだった。葉芽留宿に来たのも連中の指令によるものだったが、着くなり指示を待てとだけ告げられて、こうして四日も無為な時間を過ごしている。
茶を啜って苛立ちを誤魔化しているうちに、すずがもりそばを運んできた。そばの横には、頼んだ覚えのない芋の煮付けが並んでいる。仏頂面の碓氷と目が合うと、すずははにかんだ顔で手首の鈴を振った。
何日かこの飯屋に通ってわかったことがある。そばが旨いこと。夜が更けるにつれて酔っ払いが増えること。短気な店主が店の奥で始終誰かを怒鳴りつけていること。
そして、毎度頼みもしない小鉢をよこすこの女児は、耳が聞こえず口も利けないこと。手首の鈴は声の代わりらしい。それで碓氷は、この娘を勝手にすずと呼んでいる。
懐かしい味のする芋とそばを代わる代わるつまんでいるうちに、碓氷の向かいに座っていた相席の客が去り、奥に控えていたすずが皿を下げに来た。その背中側の席では、酔っ払った男たちが機嫌良さそうに猪口を舐めている。と、突然その一人が立ち上がり、手足を振り回して喚き始めた。
一体何の騒ぎだ――碓氷は呆然としたが、周りの客は笑って手を叩き、足を踏み鳴らしている。どうやら合唱しているらしい。切れ切れに読み取れる言葉から察するに、軍歌か。