小説

『笛吹き男のコーダ』木江恭(『ハーメルンの笛吹き男』)

 言い終えた親爺が口を閉じるのを見て、碓氷は一つ大きく頷いた。途端に親爺は帳面に目を戻し、まるで碓氷などその場にいないかのように微動だにしなくなった。碓氷も構わずに、黒光りする階段を駆け上がる。
 いぬ、は時間の指定だ。かつてこの国で戌の刻と呼ばれていた時間まで、あと半刻と少し。全く急な話である。支度を急がねばならない。
 碓氷は寝間に入るなり襖を開け、押し入れに放り込んであった旅行鞄を引きずり出した。いぬ、が時間を示すなら、あかねのさくら、は場所の指定だ。そういえば町の西側に、茜楼という揚屋があった。葉芽留宿の盛り場では一等大きな店だった筈である。となれば、さくらは部屋の名前だろう。部屋に草花の名前を冠する店は多い。
 碓氷は鞄を開く。中にはさらに黒い箱が入っている。
 箱を取り出し、金具で留められた蓋を開けると、烏の濡れ羽色の横笛が現れる。
 日本古来の横笛ではない。西洋式横笛フルートである。指穴や息の吹き込み口さえも黒く染められた姿は、灯りのない闇夜のようにたおやかで優美だ。
 碓氷はそっと黒笛を手に取り、唇を吹き込み口に当てた。息は入れずに、ただ指を踊らせて動きを確認する。
徐々に強くクレッシェンド正確な速さでイン・テンポ
 聞こえるはずのない音が、碓氷の頭の中で響き渡る。
 碓氷には西洋式横笛の心得があった。どう息を吹き込めばどんな音が鳴るのか、どう指を走らせればどんな旋律を刻むのか、全て指と頭に叩き込んである。わざわざ音を鳴らして確認するまでもない。
 碓氷は黒笛を元通りに仕舞うと、着流しを脱ぎ捨て、暗い紺と鼠色の着物と袴に取り替えた。これで笛を包んだ風呂敷包みを背負えば、まるで今日着いたばかりの旅人のように見えるだろう。
 要らない荷物を再び押し入れに投げ込み、笛だけを背負うと碓氷は寝間を出た。階段を下り、親爺の横をすり抜けるようとして、ふと足を止める。
 気配を感じて顔を上げた親爺の前に、指を四本突き出した。
 鼠は四匹で変わりないか。
 親爺は頷いた。それで碓氷は満足して、宿を後にした。

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