玉がない、と子狐が叫んだ。朝早くの事である。
玉がないとはどういうことだと親狐は目を丸くして子狐の股ぐらを覗いたが玉はあった。そっちじゃないと子狐が怒り、巣の奥を示した。
「わしの狐の玉じゃ。無くなっとる」
あぁと親狐はあくびをした。思いのほか詰まらない話だった。
「ええじゃろあんなもん」
「よくない。あれが無いと人を化かせんのだぞ」
狐の玉とは狐が化ける際に用いる物で、自分から抜け出た毛を丸めて念を送り込む事十年、ようやっと玉になった物であった。親狐も昔は持っていたが失くしていた。もう必要のない物だからだ。
「人を化かす時代じゃかろう。あの光のでる箱が眩しくてやってられん」
狐や狸が人を化かしていたのはもう百年も前の事だった。仲間の多くが狐の玉など忘れてしまい、興味本位で人を化かしに出かけた狐は、翌日毛皮や剥製になってしまった。人間とは惨いことをする。
「きっと盗られたんじゃ」
「あんなもん誰が盗る。あぁ……里のもんかもしれんな」
どういうわけか里に住んでいる人間の中には、狐の玉を秘法とかなんとか言って大事にしまっている連中がいた。
――阿保か。
あんなもんは只の毛玉である。化かす際の道具だが狐は狸と違って道具に頼らなくても一応は化けられる。あれを用いるのはこの辺りの狐だけで、上方の狐など葉っぱや木の枝だけで大名行列を真似るという話だった。
「田舎もん狐の毛玉だ。もう諦めろ。玉なしで化ける練習でもするんだな」
とは言ったが、親狐は化けることが出来なかった。自分の親の代までは化ける術を学校で習っていたそうだが、生徒の一人が調子に乗って化けに出かけて鉄砲で打たれて死んでしまった事件を受けて、化ける授業は無くなったと聞いている。今では子供が遊び感覚で自主的に化ける練習をするにとどまっている。だから大したものには化けられなかった。
「化かしたら鉄砲を撃ってくるようなやつらには関わらんことだ」
「いやだ。取り返してくる」
子狐は巣穴を飛び出した。親狐は追わずに、横になったまま朝刊を読んだ。隣町の町内会会長は狐ではなくアナグマに決まったらしい。アナグマとは世も末だと親狐はうんざりした。狐どころか狸ですらないとは。嘗てはムジナという名前で同一視されていた者たちだが、やはり狐と狸とアナグマには溝があった。
朝刊に目を走らせていると、子狐が戻ってきた。