小説

『仏斬り』N(『恩讐の彼方に』)

 中部三郎右衛門は妻の静(しず)に懐剣で突かれたのを危うく避けた。それは三郎右衛門がまさに松尾一九郎から一太刀叩き込まれて危うく自分の刀で受けた瞬間だった。三郎右衛門は右足を畳に滑らせた。一九郎はつけ込み渾身の力で二度三度と打ち込んだ。一九郎の剣の腕で三郎右衛門に勝てる見込みはほとんど無かった。静が今度は三郎右衛門の足元に絡みついた。
「おのれ……」
 三郎右衛門は、松尾一九郎と静の挟撃でドッと倒れた。部屋の中で立っている者はいなかった。一九郎は手傷を負ったが、気づけば初めて人を斬っていた。そしてその場に尻餅をついた。静は夫の足を掬おうと必死にしがみついていた。
 部屋が静まり、一九郎と静が我を取り戻して、絶命した三郎右衛門を見た。
「人が来る前に抜け出さねば。一九郎様、急いで」
 一九郎と静は、三郎右衛門とのこのやりとりを除けば準備は万端に整えていた。一括りの風呂敷包みに男女の旅支度を一式纏めて、それを一九郎が背負った。静も小物の荷物を持っていたのと、当面の路銀を懐中に入れた。
 二人は静の先導で誰からも見とがめられずに邸(やしき)を抜け出し、そのまましばらく走って町外れの百姓家の納屋ですっかり着替えを済ませ、人目につかぬ道を走った。

 松尾一九郎と静は、遠縁で幼いころから許嫁の間柄だった。静は藩の中でも褒めるものが多い才色兼備に成長した。そうなると一九郎の様な下級武士にもったいないという話が湧き、二人の間に幼いころ交わされた許嫁など無視されて、藩内でも出世頭の中部三郎右衛門の所へ嫁入ることになった。しかも後添いである。三郎右衛門の前妻が半月ほど前に病死し、息子が生まれて間もなかった所、急遽後添いを探していた。そして二十歳で今を盛りという、静を一目見て三郎右衛門が気に入ってしまった。最初は「言い交わした相手がおります」と断ったが、三郎右衛門は上司の執政に手を回して懐柔、静を妻にしてしまった。
 静はもう自分の一生が三郎右衛門という男に忍従することしかないことを悟り、嘆いた。そこで考えたのが、一九郎との駆け落ちだった。
 一九郎は始め、静の提案に尻込みしたが、静が不憫であるとは思っていた。そして、彼女に押し切られて実行に移した。
 今日夜半、ひっそりと一九郎と静は中部の邸を出て身支度を調え、夜が明けるまでに遠くへと行くつもりだった。ところがそれが、三郎右衛門に見破られていた。三郎右衛門は支度する静を見つけ「月のない、今夜が頃合いだろう。そう思っていたぞ」見とがめた。静は部屋の外の庭先まで来ている一九郎を呼び、「この人を斬って」と言った。もはやそうする以外無かった。
 剣の腕は三郎右衛門が勝った。一九郎のような、腰に刀を差しているだけの武士とはちがった。やりあえば一九郎に勝ち目は無かった。静は一九郎に「三郎右衛門を殺す必要はありません。手傷を負わせるだけでいいのです。私たちが逃げる時間が稼げればそれで」と言い聞かせていた。そういうことの結果が、今夜のことだ。

 

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