小説

『豪雨』中村市子(『蜜柑』)

 私は今、実家に向かっている。結婚してからの10年、数えるほどしか帰っていないが帰らなければならない事情ができた。上司とのダブル不倫がばれ、夫に家を追い出されたのだ。子供がいないこともあって離婚の話し合いは思ったよりシンプルに進んだが、怒り狂った上司の妻は訴訟準備に入っているという。会社に居ずらくなった私は辞表を出した。結果、齢35にして仕事も家族も住む家も失ったのだ。

 全てはいっ時の欲に溺れた私が悪い。夫にも上司の妻にもひたすら謝り続けるしかない。上司にしたって本来は真面目な男だ。私が誘わなければこんな厄災に巻き込まれることもなかっただろう。あぁ、死にたい。生きてるだけで迷惑な女なんだ、私は。それでも朝も昼も晩も、のん気に腹が空くのはなぜだ。心の底では反省してないのか?くそ。私なんぞいつ死んでもいい。いや、積極的に死にたい。よし。ひと月以内に死のう。どこで、どうやって?電車に飛び込むのもビルから飛び降りるのも方々に迷惑がかかる。かと言って、追い出された家に戻って首をくくるわけにもいかない。あれこれ考えた結果、私は生まれ育った実家で人生の幕を降ろすことに決めたのだった。

 実家は九州の田舎町にあり、68歳の父が独りで暮らしている。父はトラックの長距離ドライバーを昨年引退した。高齢の父が長距離を運転することに不安があった私はほっとした。ちなみに、母は私がまだよちよち歩きだった頃に他所に男を作り出て行ったらしい。だから顔は知らない。可愛い盛りだったに違いない。そんな時期ですら母にとって私など興味のない存在だったのだろう。私が子供を欲しいと思わず自分の中に母性のかけらすら感じたことがないのは、母に捨てられた経験が影響しているのだと思う。まぁ、そんなことどうでもいい。私の人生は間も無く終わるのだ。

 空港を出ると、空は分厚い雲に覆われどんよりと曇っていた。父に迎えを頼むのもなんとなく気が引けたのでタクシーに乗る。30分以上走りやっと実家のある集落にたどり着いた。
「ただいま」
 ドアを開けると、魚の生臭さとすえた香りが混ざったような独特の匂いが鼻腔をつき、自然としかめっ面になった。
「おう」
 視界にちんちくりんな人影が割り込んできた。父だ。
「なんだよ、その顔」
「なんか臭くない?」
「まずはただいまだろ」
「いや、言ったから」
「そんなんだから旦那に追い出されんだろ」

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