小説

『豪雨』中村市子(『蜜柑』)

 父には夫婦喧嘩で一時的に帰省すると嘘をついている。色々と気が重い。何も考えたくない。憂鬱な気持ちで居間に入る。と、庭に面した窓の外で何かが動いた。猫だ。丸々太ったキジ白で、目は鋭くこちらを睨みつけている。体は泥まみれで汚く、目頭から鼻にかけ目やにがこびりついている。お世辞にも可愛いとはいえない容貌で、猫というより妖怪に近い雰囲気だ。なんとも言えない迫力に圧倒されていると父も猫に気づいた。
「お〜ブン太、今日は早いな。また泥遊びして来たのか?」
 猫が「にゃーーーー」と低く長い声で返事した。とても不快な声だった。

 父はこの汚い野良猫「ブン太」の面倒を見ていて、ひと缶200円もする猫缶やらおやつやらを1日3度も4度もあげるのだという。餌代はざっと計算して月2万円以上。贅沢なもんだ。引退して家にずっといるようになった頃、ブン太が庭に現れるようになったらしい。一日中家でゆっくりしていくこともあれば、数日姿を現さないこともあるのだとか。つかず離れずの関係で撫でたり抱いたりは出来ないそうだが、家に来てくれるだけで嬉しいらしい。

 父の話をぼんやり聞いていると、ブン太が縁側の陽だまりの中で丸くなってあくびをした。
「ねぇ、この猫、家の中にも入ってくるの?」
「当たり前だろ。ここはブン太の家だ。出入り自由だ」
 父は嬉しそうに言った。こんな汚い猫が家の中をうろついていると考えただけで鳥肌が立った。

 父が餌の入った皿を台所から居間に運んで来ると、縁側にいたブン太は足音に気づいてむっくり起き上がった。のびをすると、当たり前のようにのっそりと居間に入って来る。
「足りなかったら言えよ」
 ブン太は父が言い終わる前に、皿に顔を突っ込んでガツガツとすごい勢いで食べ始めた。しばらくして、皿から顔を上げると、口の周りには餌がこびりついていた。その顔には生に執着する生き物の品の無さが凝縮されているような気がして、私は思わず嫌悪感を感じた。
「汚い猫」
「野良なんてこんなもんだろ」
「嫌いだわ」
「ブン太もお前、嫌いだってよ」
 私は、ブン太に限らず猫というものが嫌いだ。それは紛れもなく父のせいなのだが。

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