小説

『豪雨』中村市子(『蜜柑』)

 この集落は私が9歳の秋、ひどい台風に見舞われた。朝は弱い雨だったのに、昼過ぎから暴風雨に変わり、小学校の下校前には警報が発令された。生徒たちは親の迎えを待つため体育館に集められた。次々と友達が親に連れられ帰っていく中、私は最後の1人になるまで残っていた。とても不安だったのを覚えている。父はその日、遠方の配送から戻ってくる途中で雨に流されそうになっていた子猫を見つけ、保護しようとしたが猫が怖がって捕まえるのに時間がかかったらしい。結局、帰って来たのは朝方になってからだった。夜のうちに友人の家に引き取られていた私を迎えに来た父は、開口一番に「ほら、猫だぞ」と満面の笑みでぐしょぐしょの黒猫を私に見せた。私は、自分をあんなに心細くさせた父を許せなかったし、その汚い猫にも腹が立った。その日以来、私は猫を見ると条件反射で腹が立ってしまうようになった。父は、黒猫を溺愛した。家庭を捨て去った妻やなつかない娘とは違い、その黒猫は父からひと時も離れようとせず、眠る時も布団に潜り込み父の顔に尻を押しつけて眠った。黒猫はそれから20年父と寄り添って生きたが、私はろくに名前を呼んだ記憶すらない。

 ブン太を見ていると、猫に負けた9歳のあの日の悔しさが思い起こされ、急におかしくなって笑ってしまった。
父「なんだよ」
 父が不思議そうな顔でこっちを見た。ブン太は汚い顔で、めんどくさそうに私を眺めていた。

 実家に帰って2週間が経った日、父が「お前、いつまでいるんだ?」と聞いてきた。そりゃそうだ。私が仕事をやめたことも、離婚したことも、その原因も、まだ何も話していないのだから。私は「離婚して、仕事もやめた」と簡潔に答えた。父は一瞬、固まった。その時、庭でブン太のダミ声が聞こえた。父は「おう、ブン太。遅かったな」とブン太の食事の準備に取り掛かった。それから先は何も聞かれなかったので、私もそれ以上話さなかった。ブン太は人間たちの間に流れる空気というものを一切読まないのだが、この時だけはありがたいと思った。

 その後、天気の悪い日が数日続き、ある朝、大雨警報が出た。地元の消防団に参加している父は、近所のおばあちゃんの様子が気になるから昼食を食べたら出かけると言い出した。ついでにスーパーでブン太のご飯を買うのだとか。何もこんな日に猫の餌を買いに行かなくてもと思ったが、今日は月に一度の「ペット用品3割引デー」らしい。「オレだってオマエ、カツカツの年金をやり繰りしてブン太食わせてんだぞ」と、父はなぜか自慢げに言った。そして一袋30円のもやしを醤油で炒め、前日に買った「おつとめ品」とシールの貼られた唐揚げをチンして頬張った。その姿は、なんだか滑稽だった。

 ブン太はここ数日、雨宿りのためなのかいつもより長い時間うちに滞在している。ストーブの前に置かれた座布団の上でふてぶてしく眠る姿は何とも醜い。きっとあの毛だらけの座布団もブン太専用なのだろう。もうすぐ6月だというのに、連日の雨のせいかかなり肌寒い。私だってストーブに当たりたいのに、何度追い払っても少し席を外して戻ると必ずブン太が戻っている。どこまで図々しいのだろう。太ったブン太と、貧乏臭く痩せた父。父は前世でどんな悪い行いをしたのだろう、と心配になった。こんな汚い猫の奴隷になってしまうなんて……父よ、人間の尊厳は一体どこに置いてきたのだ。

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