小説

『くずかごの中の正しさ』太田千莉(『走れメロス』)

 メロスが目を覚ましたそこは見知った景色が広がる見知らぬ場所だった。シラクスの発展した町並みと、村の牧歌的な草原が互い違いに続く異様な風景。加えて、それらの全てはまるで定規を使わず手だけで描いたように輪郭が歪んでいる。一つ一つを切り取ればどれも記憶の中のそれと一致するが、全部が混在するこんな場所には微塵も心当たりがない。
「なんだここ……」
「お目覚めのようだね」
「だ、誰ですか」
背後から急に話しかけられたメロスは振り返る。そこには眼鏡を掛けた、クールな顔つきの青年が立っていた。
「初めまして、メロスくん」
「どうして僕の名前を……?」
 メロスは驚きと同時に身体を強張らせた。口調や出で立ちから悪意は感じないが、それでも見知らぬ相手に名前を知られているというのは心中穏やかでは居られない。
 焦りの膨らんだ思考の中、メロスは重大な事に気づいた。
「そうだ、妹! 妹は何処ですか!?」
 目の前の青年の肩を乱暴に掴み揺さぶる。
「まあまあ、まずは落ち着きたまえ。私を揺さぶってもその答えが出ない事だけは確実だ」
無抵抗な青年はそっとメロスの両手を握り、優しく諭す。
「あっ……。す、すいません……」
 大人しく手を離したメロスに眼鏡を掛けた青年は無言で一冊の本を手渡した。本と呼ぶにはいささか薄すぎる、冊子とも呼べそうなその表紙に書かれた文字をメロスは読み上げる。
「『走れメロス』……。これは?」
「良いから読んでみなさい」
 自分の名前が冠された謎の本に何とも言えない気持ち悪さを感じながらも、言われるがままメロスはその本を開いた。中は短編の物語でありその文章を目にした途端、言葉を読むというよりも物語そのものがスルリと入ってくるような、不思議で奇妙な感覚。
 そして読み進めるうちにメロスの胸中にはいくつもの違和感が膨れ上がっていく。登場人物の名前や描かれる風景など、そのどれも覚えはあるのに何かが違う。極め付けは自分と同じ名前をした、全くの別人の存在。相違点を探せばキリがない位、メロスと物語の中のメロスはかけ離れていた。歯車がかみ合う様で噛み合わない、底知れぬ居心地の悪さが渦巻く。
 嫌悪感を堪えて最後の文節を読み切ると、メロスは弱々しく本を閉じた。その様子を見て、眼鏡の青年は静かに問いかける。
「その物語を読んで、君はどう感じた」
「少し……気持ち悪かったです」

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