小説

『くずかごの中の正しさ』太田千莉(『走れメロス』)

それはメロスがこの場所に来るまでの話だった。
「僕は本物のメロスとはかけ離れた臆病な性格で、自分や妹の事だけを第一に考えて生きてきました。だから町が王のせいで活気を無くしていたときも、僕は見て見ぬ振りをして平気な顔で村に戻りました。だってそれはシラクスからは遠く離れた村で暮らす自分たちには関係無い話で、僕一人が見なかった事にすれば妹は何も気にせず生きていけるんだから」
 吐き出される言葉たち。そのどれもが確かな重みを持ちながら、行く当てもなく空気中を漂う。
「でも、そんな生き方はどうやら間違いだと言われた」
「メロスくんはそれが許せない、という事で良いのかな」
「当然じゃないですか!」
 メロスは声を荒らげた。
「確かにあのメロスはあんながむしゃらな生き方でも全部をハッピーエンドに導けました。でも僕はそうじゃない。妹を幸せにするので手一杯なんですよ。自分が護れるだけの世界を護って、それの何が間違いだって言うんですか!」
「……もしも」
 依然として冷静なダモンはメロスに問いかける。
「もしも今、かつての世界に戻れるとしたらメロスくんはどうする」
「どう、って……」
「本物のメロスのように無根拠に命を懸けて、周りに迷惑を掛けてまで事を成そうという気持ちはあるかい?」
「……」
 メロスは押し黙る。きっと自分はまた同じ様に生きるだろうと考えてしまったからだ。
 良く言えば家族想い。悪く言えば利己主義。それが自分だとメロスはよく理解している。
「きっとメロスくんは変わらない人生を歩むだろう。君はそういう人間さ」
「…………」
「ならそれで良いじゃないか」
「えっ?」
「たとえ間違いだと言われても、大切な何かのために必死に生きていられる。大切な何かを護ろうとする。それだって立派な生き方だ」
「そ、そうは言っても」
 予想していなかった言葉にメロスは拍子抜けした。てっきり、都合が良すぎるだとか口だけの臆病者だとか、そんな風に罵倒される覚悟をしていた。
 狼狽えるメロスにダモンは少しだけはにかんで、
「少なくとも、私はその信念に納得できてしまったよ」
 一言、告げた。
「……そう、ですか」
「そうだとも」
 ボソリとメロスが呟き、深く息を吐いて空を見上げた。
 こんな歪な世界でもどうやら空は変わらないらしい。空から差し込む陽の光が、メロスの目尻を微かに煌めかせた。

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