小説

『瓶に閉じ込めた話』和織(『瓶詰地獄』)

 彼が海辺の近くに住んでいるのは、波の音を聴くことができる場所でないと、うまく眠ることができないからだった。といっても、彼は海のある街の出身という訳でもなく、彼自身、特に海が好きでもない。海に入るのは億劫だとさえ感じる。それでも、一日に一度は波の音を聞きたいと思う。それだけで、スッと眠りに入ることができる。「眠ることができる」、それは、数年前の彼にとって奇跡のようなことだった。その頃彼は、不眠に悩んでいた。いろいろ試してみた結果、波のBGMを聴くと多少リラックスできるような気がして、よく聴くようになった。そしてある日、いつものようにベッドの中で波の音に耳を澄ましているとき、ふと思った。「自分は本当にここにいなければならないのだろうか?」と。そう思うくらいに、波の音に惹かれていた。だから、ただそれだけの為に転職し、誰も知り合いのいないこの地に引っ越した。給料は下がったけれど、治療代を払ったと思えば安いものだった。もう、BGMも必要ない。
 最近彼は、土日のどちらかでバイトをしている。副業と呼べるようなものでもないし、そもそも金のために始めたことでもなかったのだけれど、週一の数時間のバイトにしては割がいい。好きなとき好きなだけやればいいし、何より楽しい。そのバイトとは、シーグラス集めだ。その日集めた分を、買い取ってくれるところへ持って行って、まとめて売ってしまう。波の音を聞きながら綺麗なシーグラスを探す時間は、今まで経験したことのない感覚を彼に与えた。こんなにも自由だったのかと、それを、「思い出した」。そういう気がした。人はいつ自由を忘れるのだろう。反対に、どうしてそれを忘れずにいられる人間がいるのだろう。引っ越してきたばかりの頃は、後者の人々を羨ましく思い、その差が産んだもののことばかり考えてしまった彼だった。しかし生活になじみ始めたら、思い出すことが出来さえすれば、同じなのだと感じた。自由によって奪われるものだって、きっとある筈だとわかったからだ。
 今日も彼は、海辺を歩きながらシーグラスを探していた。冷えた潮の匂いと、波の音が髪をなでる感触。それが、心地いい。まだ寒いが、波に触れてはしゃいでいる若者や家族はいるし、自分の他にも、同じバイトをしているらしき人間もちらほらいる。三つ、黒っぽいのとグリーンのグラスを見つけたところで、足に何かが当たった。見下ろすと、瓶があった。半分埋まっていたので掘り起こしてみると、それは欠けたところのひとつもない、茶色の瓶だった。自分の探している物とは正反対の物を見つけて、彼は拍子抜け的に驚いた。よく見てみると、それほど新しいものではないにしても、海を渡ってきたとは、到底思えない代物だった。嵌めてある栓も綺麗だ。そして、中には液体の代わりに、折り畳まれた紙が何枚か入っていた。ほおっておこうかとも思ったけれど、拾ってしまったので、放置すれば捨てることになってしまう。それに、何となく、中に入っている紙が気になった。でも、瓶の入り口が細くなっているから、箸などを使わなければ取り出すことが出来ない。気になりだしたら急にやる気がそがれてしまい、結局彼は三つのシーグラスと一緒に、瓶を家に持ち帰った。

1 2 3 4