小説

『息子帰る』鹿目勘六(『父帰る』)

 康一は、寝入り端をけたたましい電話で眠りから呼び戻された。
 不吉な予感を覚えながら手にした電話口から、妹の志乃の沈痛な声が飛び込んで来る。
「お父さんの症状が悪化して危篤状態に陥ったらしいの。病院から直ぐ来て欲しいとの連絡が有ったので、私は、これから駆けつけるけど、兄さんも来てもらえない?」
 康一は、衝撃で声が直ぐに出て来なかった。数回大きく息を吸って気持ちを鎮めて、ようやく掠れた声で応えた。
「分かった。分かったけど、今日は会社で大事な会議が有ってね、欠席するわけにはいかないんだ。先週も危ないとのことで休暇を取ったばかりだし。申し訳ないけど今日は無理だ」
 先週急に休暇を取ったために社内会議や顧客との面談等の予定を今週以降へ変更していた康一にとって、その予定を再度変更することは憚られた。
「そう、先週来てもらったばかりだしね。止むを得ないわ。取り敢えず私は、直ぐに病院へ行ってみる。何か、あったら連絡させてもらうから」
「お願いするよ。佳乃へも連絡した?」
「いや未だよ。佳乃の所の恵ちゃん、もうすぐ大学受験始まるでしょう、旦那もいるし直ぐには来れないと思うので」
「そうだね。俺から連絡しておくよ。志乃は、一刻も早く病院へ駆けつけてくれ。俺は、遠くから親父が、また持ち直してくれるのを祈っているよ」
 康一が、言い終わるのを待ち兼ねたように電話が切れた。
 切れた電話を手にしたまま、父親の死に目に会えないかも知れないとの思いが胸に込上げて来た。
 そして、二月のこの忙しい時期に何てことだと父を恨めしくも思えた。
 せめて明後日までもってくれ。土曜日になれば、駆けつけることが出来る。それまで何とか持ち直してくれと神様に祈りながら電話を置いた。
 悲痛な形相で振り向くと、妻の聖子が、康一のガウンを手に不安そうな顔付きで見詰めていた。
 再度布団に潜り込んだが、とても眠れない。睡眠不足と病状の心配で明日の会議で上手く説明できるか、不安が募って来る。執行役員部長として来年の業務計画を経営層へ説明して了承を取り付けなければならないのだ。
 眠れぬままに朝を迎えて佳乃へ父危篤の連絡をした。佳乃も当惑した口調である。
「息子の試験が、来週から始まるのよ。それに今日から夫は出張。とても行けないわ」
 康一は、妹と父が回復する様に一緒に祈ろう、と慰め合う他無かった。

1 2 3 4 5