小説

『息子帰る』鹿目勘六(『父帰る』)

 康一は、会社へ出社してからも机の電話が鳴るたびに父の死を伝える連絡ではないか、と肝が潰れる思いだった。それでも午前中は午後からの会議に備えて説明資料に目を通し、強調すべき所を赤鉛筆で印をつけたり、口頭で補足説明することなどを鉛筆書きで書き足したりした。それで気を紛らすことが出来た。
 お昼になっても志乃からも妻からも何の連絡も無い。食欲が湧かないのでサンドイッチと缶珈琲だけで済ます。それから思い余って自宅へ電話を入れてみた。
 妻の聖子が直ぐに出た。聖子も志乃からの連絡を待っている様だった。夫からの電話に心配そうな声で応える。
「志乃さんからは、何の連絡も無いのよ。と言う事は、病状が変わっていないと言うことよ。良くなっても、悪くなっても、当然連絡をくれるはずだから」
康一も、その通りだと思った。志乃は、生死の境で頑張っている父の傍でひたすら回復を願って見守っているのだろう。康一も俺も頑張らねば、と自分を奮い立たした。

 午後の会議での康一の説明は、思いの外円滑に進みほぼ提案通りに了承された。
 会議を終えて康一は、本部長の副社長や副本部長の専務を会議室の出口で送った後、担当常務の佐藤としばし話を交わした。佐藤は、笑みを浮かべながら安堵した表情を浮かべた。
「君の説明が良かったので、本部長から難しい宿題を預けられなくてホットしたよ。君も顔色がいつになく優れず大分緊張していたように見えたが、これで一安心だ」
 康一は、頭を振った。
「実は、父の病状が良く無くて、そのことが気がかりでお恥ずかしい姿を見せてしまいました」
「そうか。先週は、危篤というので故郷へ帰ったと聞いていたが、やはり良くないのか。それは心配だね」
 佐藤は、表情を引き締めて言葉を続けた。
「僕の親父は、三年前に亡くなったんだ。交通事故で即死。心の準備も看病も出来ずに唐突に死んでしまってね。そのことを思うと今でもやり切れないんだ。君の場合は、大変だろうが、幸せだよ。たとえ離れていても父親と最期に頑張っている時間を共有出来ているんだ。そして親は唯一無二の存在であることを思い知らされながら、少しずつ心の準備が出来て行く」
 と言ってから慌てて頭を振って力を込めて言った。
「いや、部長の父上は必ず回復されるよ」
 康一は、佐藤の話を頷きながら聞いていた。
 それから深く一礼して佐藤に感謝の気持ちを表した。
会議の重圧から解き放されると、康一は、先週の休暇で滞っていた業務の処理を精力的に進めた。それでも心の中は、父の病状のことで圧し潰される様だった。

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