小説

『瓶に閉じ込めた話』和織(『瓶詰地獄』)

 彼は、そこでいったん席を立ち、コーヒーを淹れた。ただのいたずら、冗談かもしれない。本当か嘘かもわからない話。でも、彼は何も考えなかった。何も考えす、ただ、文章の中から流れてくる情景に身を委ねていた。テーブルに戻って、芳ばしい香りを体に取り込んでから、続きを読み始めた。

「兄妹が元々愛し合っていて、その為に船から飛び降りたのか、それとも、落船して無人島に辿り着いてからそうなってしまったのか、そういうことは、恐ろしくてとても訊くことは出来なかったと、祖母は言いました。話し終えると、祖母は子供のように泣きました。私が生まれてしまって、父と母は仕方なく世間へ戻った訳ですが、母の方は体の負担が大きかったようで、救助されてすぐに亡くなってしまいました。そして、父も愛する妹を追って逝ってしまいました。今、祖父と祖母のもとに残っているのは、誰にも望まれなかった孫だけです。まぁ、子供の頃から感づいていたので、事実を聞かされても、私の中で特に何かが変わったということもありませんでした。祖母が泣いているのを見てまた私も、ああ、自分はこの瞬間を待っていたのだと、気づかされました。私にできることは、何もないのです。なぜなら私はただの、家族に愛された人間だからです。彼らには、私を捨て、私と他人になって生きていくという選択肢があった筈です。しかしそうはしなかった。祖父も祖母も、父も、多分母も、私を愛していました。父は死ぬとき、きっと私のことも一緒に連れて行ってしまいたかったのじゃないかと思います。私も父を愛していたので、正直、どちらでもよかったと思っています。私の望みは、家族が少しでも楽になることでした。私を愛することで苦しまなくていいということに、報われる必要などないということに、気づいてくれることでした。
 父は、やさしい人でした。そして写真でしか知らない母は、とても美しい人でした。そういう二人が愛し合っていた事実は、ただただ素敵なことだと思いますし、二人が自分の両親でよかったと、素直にそう思っています。しかし物語としては、この話は、特には私の好みではありません。もちろん、誰かを大切に想うことはありますが、父と母の反動なのか、私は割とドライな人間に育ちました。だから二人のことはまるで、おとぎ話です。しかし、そんなおとぎ話が、私の人生においては一番、重要な物語です。二人はいつから愛し合うようになったのだろう?船から落ちるのはどんな感覚だっただろう?島での生活はどんなもだったのだろう?決して解明されないことを、私はいつまでも、考え続けるでしょう。そこにあった言葉を、表情を、景色を、想いを、果てのない夜空と星を、孤独を。答えをくれることのないまま、両親はそれを私に考えさせるのです。それは二人からの贈り物であり、物が語られることにおいての、主な役割でもあるのでしょう。この物語はその役割を、私が尽きるその瞬間まで、果たしてくれるのです。
 瓶に詰められた物語は、今、あなたの手の中にあります。しかし、あなたより前に栓を開けた人は、既にいるかもしれません。そしてまた、この瓶はどこかへ行くかもしれません。私はそれを想像します。あなたのことを、想像します。会ったことのないあなたを、あなたが何を感じるのかを、あなたの、イメージを。そうすると、父と母が生きているような気がしてきます。ずっと遠くにある誰も知らない無人島で、二人きり、永遠に生きていくように感じるのです。」

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