小説

『なんともまぁ狭き世界で』太田純平(『如何なる星の下に』高見順)

 彼女は座席の端から二番目に座っていて、電車の扉が開くとすぐに目が合った。近くへ行って「あけおめ」なんて会話を二、三すると、吊り革に掴まっていたおばさんが横にスッと退いてくれた。おばさんに会釈をして彼女の前に立つと、ウエストバッグから分厚い冊子を取り出して彼女に渡した。ネットで散々「浅草 食べ歩き」と検索し、数日掛けて完成させた「浅草食べ歩きプラン」である。
 サラリ、サラリと彼女がページをめくる。彼女の名前は伊藤真弓。先に断っておくと恋愛関係ではない。彼女には旦那も子供もいる。彼女の左手の薬指には光る物があって私には無いのが何よりの証拠だろう。車窓を流れるどんよりとした雲。予報では午後から晴れるという。
 真弓はほんの十数秒で食べ歩きプランを消化すると、却下とばかりに冊子を突き返してきた。「浅草食べ歩きプラン」とは一体何だったのか――。よっぽど網棚に置き逃げしてやろうかと思ったけど、表紙が恥ずかしいので大人しくしまった。
 昼過ぎに浅草駅へ着くと、ホームが大混雑していた。三が日を過ぎてもこの有り様である。ろくに会話もままならないまま地上へ出ると、「やっと出られたね」なんて会話をしながら、真弓に対して思っている疑問を口にしてみた。
「ていうか俺でイイの?」
「何が?」
「いや、俺なんかと、新年早々――」
「インフルだからしょうがない」
「インフル?」
「旦那がインフルエンザになっちゃってさ。子供も実家に預けたし、たまにはね」
 そう言うが早いか、彼女はじゃれるように体当たりしてきた。ハワイアンっぽいフレグラスの香りがした。
「あっ、そうだ」
 ふと思い出したように真弓がスマホを取り出す。
「天使でしょ」
 そう言って見せてきた画面には娘さんの写真があった。
「何歳だっけ?」
「四歳」
「マジか。もうそんな経つ?」
「ウン」
 子供の話が出て、ようやく彼女は疲れた顔をやめた。ここ数日、正月の準備だ何だで忙しかったのかもしれない。
 大通りに出ると、通行客とは別に長蛇の列が出来ていた。有名なドラ焼き屋の列だった。彼女にドラ焼きは好きかどうか訊いたら「普通」と答えたので、無理して並ばずに済んだ。昔から彼女の言う事は絶対である。「ドラ焼きが食べたい」と彼女が言ったら、たとえ二時間待ちでも並ばなくてはならない。彼女が二つ年上だからというよりは、そういう星のもとに生まれた男女、といった方がしっくりくる。
 人波を縫って信号を渡り、雷門の脇に出た。本来なら雷門をくぐるべきだろうが、お互いアイコンタクトで「あの人混みはムリ」と語った。
「書いてるの?」
「ん?」

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