小説

『あるく姿は』間詰ちひろ(『源氏物語』第九帖「葵」)

「お婆ちゃんのこと、お願いね」
 ちらりと目配せをする母の明子に向かって、夕奈は「大丈夫だよ」とわざと明るい返事をした。
「せっかく夫婦水入らずの旅行なんだから、楽しんできて。お土産、よろしく!」夕奈の言葉に母はそうねと頷き、カバンをぎゅっと持ち直していた。何かあったら電話してねと言い残し出かけていった。

「お婆ちゃん、もしかしたボケ始めてるかもしれない」
 数日前のことだ。母から「相談したいことがある」とメールが来た。夕奈は何事かと慌てて電話をしたら、一緒に暮らすお婆ちゃんの様子がおかしいのだという。
「夜中に、うなされていたり、ごめんなさいごめんさないって、誰かに謝ってるみたいでね」神妙な声でそういって、母は少しため息をついた。
「なんか嫌な夢でも見たんじゃないの?」夕奈はそう言ったものの、母は「そういう感じじゃないんだから」と聞き入れてくれない。
「じゃあさ、今度の連休、家に帰るよ。わたしがお婆ちゃんの様子見てみる。お母さんはお父さんと温泉にでも行ってきたら?」
 夕奈ひとりに任せておけないなどと、ぐずぐず言っていたけれど、結婚記念日のお祝いに旅行をプレゼントすると夕奈が申し出ると「そうお?」と母はようやく首を縦に振った。
 祖母の六美は今年で84歳になる。大きな病気もしておらず、まだまだ元気だと定期検診で太鼓判を押されたばかりだった。日頃の会話で噛み合わないこともない。ただ、一ヶ月ほど前から、深夜になると、祖母が眠っているはずの和室から何やらボソボソと声が聞こえるようになったという。
「そんなに心配なら、直接聞いてみればいいんじゃないの?」夕奈が母にそう言うと、母は何やら「嫁の立場があるでしょ? お父さんはいびきかいて寝てるから、気づいてないのよ」と口を濁していた。
「孫の夕奈になら、何か話してくれるかもしれないし。あんたに任せてみようかな」母はそう言って、父との温泉旅行に出かける決心を固めていた。

「夕奈ちゃん、お仕事忙しいでしょう? ご飯はちゃんと食べてる?」せっかくだから美味しいものを食べましょうと祖母の六美は夕奈に提案した。
「久しぶりに、お婆ちゃんの茶碗蒸しが食べたい!」
「あ、じゃあお寿司でも取りましょう。お吸い物の代わりに茶碗蒸し。お婆ちゃんもたまにはちょっぴり贅沢したいわ」ふふっと楽しそうに六美は笑っていた。

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